来世で逢いましょう

「ようこそお越しくださいました、水柱様」
 その呼び名をやめろと言われたことは以前にあったのだが、アオイにとっては皆柱は柱でしかなく、それ以外の名で呼ぶことは恐れ多い。やめる気配が微塵もないアオイに諦めたのか、蝶屋敷へと訪れた冨岡は何も言うことはなかった。
「手前勝手だがけじめをつけに来た」
 仏間に通すと冨岡は静かにりんを鳴らし、随分長い間拝んでいた。足を運んで直接伝えなければならないこと、もとより口数の少ない冨岡が、長く拝むほど話すことがあるのだろう。後ろ姿を眺めていると、長く対話をしていた冨岡の頭が少し上を向き、胸の前に添えられていた左手が膝の上に下ろされた。どうやら話は終わったようだ。
「師が縁談を持ってきた」
 背後に控えるアオイに対話の内容を教えてくれるとは思っておらず、また縁談という言葉に動揺したアオイは肩を震わせた。
 実をいうと、鬼殺隊のなかでも色々と画策する動きはあった。輝利哉を筆頭に隠の間でも、柱であった冨岡と不死川に縁談を持っていこうとしたり、はたまた我こそがと名乗りを上げる強者もいた。その話がどうなったのかアオイは知らされていなかったが、再三言われ続け根負けしたのかもしれない。二人が誰かと夫婦になるようなことを考えているようには見えなかったが、わざわざ教えてくれるということは師の言葉には否を言わなかったのだろう。
「先のない者に嫁がせるなど今でもどうかと思うが……随分迷いはしたが、受けることにした」
 ――生き残ったら、お嫁にもらってくださいます?
 アオイの脳裏に聞こえたのは、かつて蝶屋敷の主人だった女性の声だった。
「ちょっとした世間話じゃないですか。そんなに驚かなくても」
「……もう少し生きる糧になりそうなことを口にしろ」
 食事の準備ができたとしのぶを呼ぶために引き戸へ手をかけた時だった。
 鬼舞辻無惨打倒に向けて柱稽古が行われていた時、しのぶは珠世とともに研究を続けていた。並行して隊士の怪我も診ていた時のことだ。定期的に訪れる検診のために冨岡は蝶屋敷へ足を運んでいた。
「つまらない人ですね。たまには乗ってくれても良いじゃないですか」
「俺が生き残るとでも思っているのか」
「ええまあ。私よりもうんと強い方ですから」
 困惑した様子が手に取るようにわかった。いい加減自分の能力を正しく把握すべきです、としのぶは続け、柔らかい声がもしもの話を紡ぎ始める。
「私はね、冨岡さん。生き残ったら恋をしてみたいんです。自由恋愛なんて素敵じゃありませんか。好きになった方と添い遂げるなんて素晴らしいことです」
「好きにすればいい。お前なら引く手数多だろう」
「引く手数多じゃ駄目なんですよ。ただ一人と添い遂げるのが素敵なのに」
 何を言いたいのかアオイは考えていた。今までもしもの話をしているしのぶを見たことがなかった。アオイには言わないだけで、冨岡には良く話していたのかもしれないが、冨岡の声音からはそうは思えなかった。
「恋をして祝言を上げて子を産んで……きっと幸せなんでしょうね。その相手は、できれば貴方がいいんです」
「無理だ」
「あら、私では駄目ですか。なかなか理想が高いんですね」
「生き残る気のない者の仮定話は聞くに値しない」
「―――」
 アオイにも感じられたしのぶの本心。仮定の話をして、未来の話をするしのぶには、生きようとする気概があるようには思えなかった。
 藤の花の毒を孕み続けるしのぶは、捨て身の方法を使って鬼を打倒するつもりであることをアオイは知っていた。
「手厳しいですね。与太話に乗らない人なのは知ってますけど、そんなばっさり切り捨てられると二の句が告げません」
「続けるな。詮無いことだ」
「……少しは糧になるかと思ったんですよ。貴方には死んでほしくないんです」
 何故しのぶがもしもの話をし始めたのか、それは本人が言葉にしたとおりの理由なのだろう。
 所謂好い仲という相手がしのぶにいるとは思えなかった。柱であるしのぶにそんな時間があるとも思えず、毒を孕んだ体はそんなことを考えるには重すぎる枷になる。何よりしのぶは、たった一人の姉を殺した鬼を討つことしか考えていないのだから。
 それでも口にした生き残った後の話。それもしのぶの本心であることも感じ取れた。
「炭治郎くんたちに命を賭けるくらいなんですから、きっと貴方は彼らのために投げうつ覚悟なんでしょう。私も人のことは言えません。だからこその話です」
「………」
「私を思い出して少しは生きようと思ってくれるなら良いなあと思ったんです」
 寂しそうな声音が言葉を紡いでいる。
 アオイは唇を噛んで泣き出しそうな感情を抑え込んだ。きっと二人には扉の前にアオイがいることは気づかれているだろうけれど、しのぶは構わず話し続けていた。
「……それを糧に生き残ったとして、片方がいなければ意味はないだろう」
「あ、ようやくもしもの話をしてくれましたね。勿論考えはあります。どちらかが生き残ったら、そうですね」
 ――誰かと余生を添い遂げるというのは如何ですか。
「……何でそうなる」
「だって、生き残っても私がいないのでは意味がないのでしょう。私を糧にして生き残ったのなら、私がその後を決めてあげなければいけませんから」
 大きな溜息が聞こえた。聞くだけ無駄だったと呟いた冨岡の言葉がアオイの耳に届く。大事なことです、としのぶが笑う。
「生き残ることができたら、余生は思いきり楽しんでいただきたいでしょう。貴方は意外と人が嫌いじゃないようですし、誰かと一緒になって、家庭を築いて子を残して、貴方の血が連綿と続いていけば、」
 また会えるかもしれないでしょう。
 そう言ったしのぶの声音は、アオイが聞いたこともないほど柔らかいものだった。
 我慢していたはずの涙がいつの間にか頬を伝っていた。盗み聞いてしまったことを後悔して、生きる気のないしのぶのささやかな望みを冨岡が受け入れてくれることを願った。
「胡蝶は死んでいるのにか」
「輪廻転生をご存知でしょう。私は生まれ変わって、もしかしたら貴方も生まれ変わって、遠い未来に会うことができたら、私と恋をしてください」
「それだと俺が生き残って所帯を持つ必要がない」
「そこはほら、生を謳歌してもらいたいですから。良いんですよ、貴方は炭治郎くんたちのために闘ってもらって。ただ、貴方自身の幸せを願っていた一人の女がいたことを覚えていてくだされば」
 そしたら無下にはしないのではないですか。
 沈黙は納得していないことを示しているように感じられた。死にに行くつもりのしのぶに、同じように死にに行くことを決めていたらしい冨岡は何を思っているのかアオイにはわからなかった。
「来世で会いましょう。今度はもっと素直になりますから」
「話にならない」
 椅子の動く音が聞こえ、冨岡が立ち上がる気配がした。ぎくりと体を強張らせ、アオイは引き戸から少しだけ離れた。
「生まれ変わろうと、それはお前自身ではないし俺自身でもない。俺の生きる糧になりたいのならお前が生きていなければ意味がない」
「生きていれば恋をしてくれるんですか?」
「……わざわざ俺のような者に言わずとも」
「貴方が良いと言ってるんですけど。私には生きる糧をくださらないんですか」
 引き戸に近づく足音が聞こえる。アオイは窓際へと後ずさり涙を拭った。目元を擦りながら必死に嗚咽を噛み殺した。
「……そんなことで生きる気になるのなら、いくらでもしてやる」
「……聞きましたからね、約束ですよ」
 揺れる声音で発したしのぶの言葉を最後に、引き戸は開かれた。歯を食いしばって顔を見せた冨岡にお辞儀をした。冨岡は相変わらずの無表情だったけれど、部屋の奥にいるしのぶの目は潤んでいたけれど、見たこともないほど晴れやかに笑っていた。

「胡蝶の言うとおりにするのは癪だが、そう願った者がいてくれたことは……俺が今生きている理由でもある」
 あの時アオイが聞いていたことを覚えていたのだろう。冨岡は仏壇から振り向いてアオイと向かい合った。
「あいつは糧にならなかったようだが、願いどおり余生は謳歌してやることにした」
「……そんなことは。しのぶ様はずっと水柱様を、」
「俺には気づく余裕がなかった。良く話しかけてくれるとは思っていたが」
 どの隊士よりも気にかけていた様子を見ていた。もっと話をしたほうが良いと文句を言っていたのを聞いていた。案外天然でドジなところがあるのだと含み笑いをしていたのを知っていた。アオイはずっと、しのぶが冨岡を目で追っているのを見ていたのだ。
「胡蝶が来世で良いと言うなら、俺も来世に任せることにする」
 目頭が熱くなり始め、アオイは俯いて堪えようとした。重力に負けて目から雫が零れ、膝の上に乗せていた手の甲にぽたりと落ちた。
「相手は元隊士だと言っていた。気立ても良く働き者だと。俺には勿体ない」
「……ここで話されては、しのぶ様が妬いてしまいますよ」
「何故だ。あいつが言ったことなのに」
「女心とはそういうものですから」
 少々困惑したような表情をしたものの、伝えるつもりで来たのだと冨岡は言い、話を切り上げる気はないようだった。以前の無口さからは考えられないことを口にして、冨岡は縁談相手の話を続ける。
「胡蝶のことを気遣われた。あの時の話はお前しか聞いていないはずなのに」
「仲が良く見えていました。きっとその方もお二人が恋仲だと思っていたんでしょう」
 驚いたように目を丸くして、冨岡は首を傾げた。そんな仲ではなかったと告げて考え込んでいる。それは事実なのだろうが、しのぶが冨岡を慕っていたことを隊士は察していたのだろう。きっと蝶屋敷や任務先での様子を見ていたのだろうと思う。
「案外わかりやすかったですから、しのぶ様は」
「……そうなのか」
 少々目元を赤くして、冨岡は照れたように目を逸らした。鬼殺を取り上げればまるで少年のように照れたり笑ったりする。しのぶには凪いだ水面の奥に潜む本来の冨岡が見えていたのだろう。天然でドジであるなど、アオイからすればまるで頓珍漢な印象だと思うほど、能面を被った冨岡は冬の湖のように冷たい人だと思っていた。
「……ここでしか言わないから、胸の内に仕舞っておいてくれないか」
「え、はい」
「俺も胡蝶と生きたかった」
 目を伏せて口元に弧を描きながらも、呟いた声音は驚くほど寂しそうだった。震え出すのを誤魔化すようにアオイは唇を噛み締めた。
「所帯を持つ幸せなど、俺のような者が享受してはならないものだと思っていた。胡蝶がいないのなら尚更だ」
 本当は誰より己に厳しく、己を卑下する言葉を口にする。柱となっても、なっていたからこそ無力さを感じていたのかもしれない。アオイにも身に覚えがあった。同じだと感じるのは恐れ多いことではあったが。
「だが後ろばかり向いていても何も変わらなかった。俺を生かしてくれた者たちのためにも、繋いでいかなければならない」
「……はい。水柱様がどれほどご自分を卑下しようとも、我々は助けられてきましたから」
 ――貴方自身の幸せを願っていた一人の女がいたことを覚えていてくだされば。
 しのぶが願っていたように、心身を賭して鬼を斬っていた冨岡の幸せをアオイも願う。この先冨岡が悔いることのない人生を歩めるように。
「世話になった」
「いえ、またおいでください。お待ちしています」
 柔らかい笑みを見せ、冨岡は頭を下げた。師が縁談相手とともに冨岡の屋敷で待っているらしい。
 願わくばこの先の人生が、末永く続きますよう。
 痣が発現した者に無責任な祈りをすべきではないかもしれない。それでもアオイは願わずにはいられなかった。

*

「冨岡の奴、帰っちまったのか?」
「あ、どうも! 冨岡帰った!?」
 同時に発した言葉は先程まで滞在していた者の名を紡いでおり、驚いたように二人は顔を見合わせた。
「誰お前?」
「お、音柱様……どうも、村田です……」
 知らねえ。失礼にも思える言葉を口にした宇髄に、腰が引けながらも元隊士は曖昧に笑った。同期なのだと言う村田に、宇髄は感心したように声を漏らした。
「同期ね。生き残ってたのか、やるじゃねえか。つうか俺もうだいぶ前から柱じゃねえし」
「すみません……ええと、宇髄……さん」
「おう」
 呼び方に満足したのか宇髄は頷きアオイへと向き直る。
 正直宇髄には苦手意識を持っているが、一応和解しているのでアオイも何事もなかったかのように振る舞った。当時はしのぶが怒り狂って諌めるのに苦労した。そのおかげでアオイも苦手程度で収まっているのだが。
「先程お帰りになりました。お師匠様と縁談のお相手がお待ちだそうで」
「んだよ、せっかく俺が祝いに来てやったのに。押しかけるか」
「冨岡って何しに来てたの?」
「ご挨拶に来られました」
「胡蝶にか」
 何かあると勘付いていたのか宇髄は確信したような声音で聞き返した。逡巡したものの頷くと、村田は驚いたようにアオイを見つめる。
「えっ。冨岡と蟲柱様ってそういう仲だったの?」
「何だよ、同期なのに知らねえのか。胡蝶がえらく冨岡構ってたの見たことねえの?」
 しのぶの冨岡への言動を色々と見ていたらしく、宇髄は納得したように頷き続けている。対する村田は驚いた表情のまま、アオイを見たり宇髄を見たりと忙しなかった。
「冨岡がどう思ってるのかまでは気づかなかったが、成程なあ。良く縁談受ける気になったもんだ」
「蟲柱様が冨岡を……? 本当に?」
「わかりやすかったぞ。どう見ても好きな相手を構いたい感じ」
 悲鳴のような声を上げ、村田は頬を赤らめた。どうやら全く気づいていなかったようだ。
 アオイは蝶屋敷で見ていたから気づいたが、一般隊士が目にするにはかなり希少な場面だったのかもしれない。
「能面だった冨岡の何が良かったのかは知らんが、胡蝶には何か見えてたんだろうな。当時は天然だとか訳のわからんこと言ってると思ってたが、本当だとは思わなかったぜ」
 目敏く敏感な宇髄すら気づかなかった冨岡の本質をしのぶは知っていた。その事実がアオイには少し眩しく感じていた。村田もまた気恥ずかしそうな表情をしている。
 さすがに冨岡が話したことまで伝える気はないが、こうして蝶屋敷まで足を運ぶくらいなのだから、宇髄も村田も気にかけていたのだろう。輝利哉に諭され不死川も縁談を受ける方向に向かっていると宇髄は教えてくれた。
「そうですか。皆気にしていたので安心しました」
「隊士連中が凄かったらしいな。誰があいつらに嫁ぐかで揉めたんだろ」
「隠の中からも立候補があったようです」
「助けられたことある子もいたしなあ……」
 輝利哉を中心に選りすぐって相応しい相手を見つけ出したらしい。選出部隊は宇髄と元炎柱の煉獄家当主もいたそうだ。更に冨岡には元柱の育手である師もついている。そうそうたる面々にアオイは思わず姿勢を正してしまった。
「不死川なんか凶悪面だから相手が見つからなけりゃ俺が紹介してやろうと思ってたが、物好きがいるもんだな」
「そりゃまあ、何たって柱ですし……実際闘いっぷり目の当たりにして惚れ込んだ子もいるみたいですから」
「ほーん。人間顔じゃねえってことか」
 どちらも違う意味で怖さを感じていたが、笑うと案外可愛らしく見える。重責から解放され二人とも自然な表情を見せるようになり、蝶屋敷で見かけた隊士などは頬を赤らめることもあったのを見かけたことがある。
「相手を作る気がないなら世話してやろうと思ってたが、所帯持つ気があんなら良いか。よし、村田っつったな、冨岡ん家に行くぞ」
「えっ! でも師匠とお相手来てるんですよね」
「んなの知るかよ、祭りの神たる俺様が行ってやるんだから、歓迎して当然だろ」
「え、ええ……」
「お前も相手見繕ってやるからさっさと来い。邪魔したな」
「あ、はい。お気をつけて」
 嵐のように去っていった宇髄と村田を見送って、アオイは仏間へと戻った。
 仏壇の前に座り、位牌を眺めてひと息つく。
 しのぶの想いは冨岡に届き、彼は幸せを受け入れようとしている。その相手がしのぶではないことが少々悲しくはあるけれど、残された冨岡の決めた相手ならば、しのぶも文句は言えまい。捨て身の戦法を取るしかなかったとはいえ、蝶屋敷の子らを置いて逝ってしまったしのぶには、アオイも物申したいことはあった。
 冨岡が誰かと幸せになることを自ら願ったのだから、そのくらいは甘んじて受けてもらわなければ。ずっと向けることのできなかった笑みを、アオイはようやく仏壇へと向けた。

*

 りんの音が意識を呼び戻し、目の前には冨岡の姿があった。
 片腕はなく、長かった髪も短くなっている。目を瞑り拝む様子からは、以前のような怜悧な印象はなく、穏やかな空気を纏っていた。
 拝みながら心中で話しかけてくる冨岡に、しのぶはただ耳を傾けていた。
 ――お前の願いどおり、縁談を受ける。
 死んだ後だからわかる冨岡の雄弁な胸の内。以前の話を覚えていたらしい冨岡は、律儀にも約束を果たそうとしてくれるようだった。随分長い間悩んだようだが、その間に冨岡は宇髄家の誘いで温泉に行ったとまで報告してくれた。どうやら鬼殺隊の責務から解放され、ようやく人らしく楽しむ余裕ができたようだ。
 願ったのは他でもない自分自身であるのに、心の隅でほんの少しだけ残念に思う。
 冨岡はきっと死ぬまでしのぶを忘れないでいてくれるだろうけれど、冨岡の死を看取るのはその縁談相手になるのだろう。それに安堵してはいるものの、悔しさが滲むのも事実だった。
 ゆっくりと瞼を持ち上げ、手を下ろした冨岡は後ろに控えるアオイと向き合った。しのぶに話したことをアオイにも聞かせている。彼女はあの時の会話を聞いていたから、そのせいかもしれない。
 生き残ったら、お嫁にもらってくださいます?
 しのぶにとって生きる理由は姉の仇討ちただ一つであった。どれだけ大事なものが増えようと、大事にしたい人ができようと、しのぶは命を使って鬼を道連れに地獄へ落ちる覚悟をしていた。あの時口にしたのはほんの気まぐれ、冨岡が生きていく糧に少しでも混じっていたかっただけだ。冨岡に生き続けてもらうために、本当は墓まで持っていくつもりだった感情をしのぶは口にした。
 あの時のしのぶの言葉をどこまで糧にしてくれたのかはわからない。己がどれだけ否定しようとも、相応の、新しい型を生み出せるほどの実力を持っていることを、柱としての実力を誰一人として疑わぬほど強かった。しのぶが何かを言わずとも、生き残る手立てもあったはずだ。
 ――そんなことで生きる気になるのなら、いくらでもしてやる。
 冨岡の言葉がどれほどしのぶの心を震わせたのか、伝えることはできなかった。生きて証明することはできなかった。藤の花の毒そのものになってしまっていたしのぶには、最初から無理なことだった。
「あいつは糧にならなかったようだが、願いどおり余生は謳歌してやることにした」
 糧にならなかったわけじゃない。毒を使わずに済むのならしのぶは生きるつもりだった。生きて冨岡と恋をしてみたかった。普通の娘のように好いた相手と添い遂げてみたかった。アオイはずっと蝶屋敷でしのぶを見ていたから、しのぶの想いに気がついていたのだろう。
「胡蝶が来世で良いと言うなら、俺も来世に任せることにする」
 任せるなんて言わないで。来世まで会いに来てくださいよ。
 生まれ変わりは本人ではないことくらい、しのぶにだってわかっていた。冨岡に言われずとも理解していた。
 貴方が良いんです。
 誰かと所帯を持つなんてしないで、しのぶだけを見てほしかった。生まれ変わりなんてものじゃなく、この時代を生きていた間に冨岡と恋をしたかった。来世で良いなんて、そんなわけないじゃないですか。全て無理だとわかっていたから、せめて来世に願いを託したのだ。
「俺も胡蝶と生きたかった」
 感じるはずのない熱が目頭を襲う錯覚に見舞われ、しのぶは冨岡の表情に目を奪われた。
 そんなふうに笑うんですね。
 欲を言うなら、生きている時に見たかった。好物を前に輝くほどの笑顔を見たことはあったけれど、今は柔らかい笑みが寂しそうに翳っている。しのぶを想ってそんな表情をしてくれるのか。きっと生きていたら、心臓が跳ねて落ち着かなくなっただろう。
 ここでしか言わないと口にしたとおり、アオイとの会話が終われば二度と表に出すことはないのだろう。当然だ。冨岡には伴侶となる相手が待っているのだから。
 縁談相手を随分褒めそやしていたけれど、冨岡の好みだったのだろうか。好みの女性がどんな人なのかはさっぱりわからないけれど、良い相手であるならばしのぶも安心できる。本音はやはり寂しいけれど、己の仕掛けた罠で鬼を殺せたことに達成感こそあれど悔いはなかった。
 次こそ貴方と生きたいから、ちゃんと私と恋をしてくださいね。
 聞こえるはずのない言葉を紡いで、しのぶは冨岡の横顔に笑みを向けた。
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