ボーイ・ミーツ・ガール

 胡蝶しのぶは緊張していた。
 どんな相手であろうとも、持ち前の気の強さと機転を利かせて言い寄ってくる男を手玉に、否、けむに撒いてきた。言いくるめるのは得意だったからだ。
 姉と二人並べば今まで可愛い、美しい以外の言葉を聞いたことはなかった。自他共に認める美人姉妹の妹であることは、鼻にかけたことはないがきちんと認識している。小中高とエスカレーター式の女子校に通う姉妹なので、両親が登下校を心配して防犯ブザーを山ほど持たせることも、護身術とか習っちゃう? なんて聞いてくることも仕方のないことだと思う。子供の頃から変質者に鉢合わせることが多かったからだ。何だかんだで大事になる前に警察や通りすがりの大人たちに助けられ、今まで無事に済んでいた。
 だから、蝶よ花よと可愛がられてきたしのぶにとって、見知らぬ男に体を触られるのは、医者以外にこれが初めてだった。
 引っ越して最初の登校だった。学校まで徒歩で通える位置にあったマンションを引き払い、両親の念願叶って購入した新築一軒家へと住居を移した。学校は遠くなってしまったが、程よくのどかで都会も電車一本の距離なので、充分満足できると喜んでいた。家族一同浮かれた状態だった上、電車通学というものを経験して来なかったしのぶは、朝練で先に登校した姉は大丈夫だったかと心配する余裕もなく、ただあらぬ場所に伝わる誰かの手の動きに硬直した。
 最初は鞄か何かが当たったのだと思った。初めて乗る満員電車は戸惑うことだらけだったので、持ち物が誰かに当たることもあるだろうと気にせず黙って立っていたら、何を思ったかお尻の部分をさすり始めた。割れ目に入り込む指の感触がある。こんなもの、鞄などでは決してない。
 痴漢の文字が頭に過り、しのぶの体に鳥肌が立った。どれだけ変質者に遭遇しようと、既のところで誰かが助けてくれたので、今回だって声を上げれば誰か助けてくれるはず。そう頭の隅では思うものの、しのぶの喉から声が出なかった。
 周りは本当に助けてくれるだろうか。もし声を上げて、犯人がしらばっくれたら? 今もお尻に触れられる手を掴んで叫べば、現行犯だと捕まえてくれるだろう。手を掴む。それさえ出来れば。そう考えるのだが、もし失敗して逆に捕まえられたら。どうなるかなんて想像できない。怖い。
 初めて乗る満員電車で初めて遭う痴漢。お尻に触れる手から一刻も早く離れたいけれど、車両内は人が密集している。頭の隅では思考はぐるぐる巡っていたけれど、体が強張って動けなかった。せめてこれ以上エスカレートせずに最寄り駅に着いてほしいと願う。
 手すりに捕まってかたく目を瞑る。早く、と必死に何かに縋っていると、しのぶのお尻をさすっていた手の感触が離れた。詰めていた息を吐きかけた時、視界に背後から伸びてきた手が見え、あろうことか股部分を擦り始めた。同時に耳元近くで荒い息が聞こえてくる。気持ち悪い。嫌だ、怖い。それしか考えられず、目を瞑ったまま必死に耐えようとした。
「うわっ」
 男の悲鳴が小さく聞こえたと思ったら、這いまわる手の感触が今度こそ消えた。恐る恐る瞼を上げて、涙が滲んだ目を後ろに向けた。
「……間違っていたらすまないが」
 痛いと喚く男の手首を捻り上げた、どこかの学校の制服を着た男子はしのぶに向かって問いかけた。
「同意の上だろうか」
「………っ、違います!」
 痴漢です! 怯えて出なかった声が出せたことに気づき、ちょうど到着した駅に痴漢を引きずり降ろしていく男子高校生を眺めて、しのぶは気が抜けたように人の減った電車内でへたり込んだ。腰が抜けてしまっていた。
 動きたくても動けないしのぶは、車内の女性に肩を借りてどうにかホームのベンチへと辿り着いた。学校の最寄りより二つほど手前の駅だ。聴取だなんだと色々あるようなので、今日は学校には行けないだろう。ご両親に迎えに来てもらったら、と肩を貸してくれた女性が提案してくれた。ほっとしたら涙が溢れそうだったが、何とか零すことは堪えた。駅員へ痴漢男を引き渡した後、しのぶも直ぐに事情聴取が始まった。
 解放されたのは数時間後、助けてくれた男子高校生は見つからず、迎えに来た両親とともに帰路につき、その日は学校を休んだのだった。

 同じ時間帯の電車に乗るのは怖かったのだが、姉と一緒にいるだけでも安心感はあった。助けてくれた高校生に感謝の言葉を言うこともできなかった。何とかしてもう一度会い礼を伝えたいのだが、あの時間の同じ車両に乗ったということしか共通点がない。制服でどこの高校かがわかればもう少し違ったかも知れないが、しのぶはそこまで他校に詳しくはなかった。
 見ず知らずの高校生を、両親も姉のカナエも物凄く持て囃した。電車通学の初日に痴漢に遭ったのは災難ではあったが、周りの助けてくれた人たちのおかげで、トラウマにならなくて済んだ気がするのだ。
「満員電車がこんな怖いなんて思わなかったわ」
「しのぶも部活始めたら? 私が乗った時間は空いていたわよ」
「そうね……」
 カナエと一緒ならば怖さは和らぐ。帰りは同じ方角の友達と一緒に帰ろうとしのぶは決めた。もうあんな恐ろしいことはごめんだ。その為にも今日中に彼を見つけたい。
 涼しい顔で腕を捻り上げ、駅員に突き出す時も淡々としていた。大の男を軽々引きずっていたのが羨ましくなって、しのぶは昨夜本格的に護身術を学ぶことを検討し始めた。
 学生の姿がちらほらと見える。周りを見回して顔を確認するものの、なかなか昨日の顔は見当たらない。
「見つかった?」
「ううん、いないわ」
 学生数人が集まる輪を見てみるが、しのぶの視線に気づいた者がそわそわとこちらを気にし始めるのがわかった。ホームに電車が止まり、ごった返す車内へ足を踏み入れ、駅に到着するごとに入れ替わる乗客の顔を見渡した。
「昨日はたまたまこの時間だったのかしら」
「どうかしらねえ、車両が違うのかも。駅員さんなら連絡先知ってるかしら?」
「あ」
 思いつかなかった。確かに痴漢を捕まえたのはあの高校生なのだから、連絡先を控えていてもおかしくないはずだ。帰りも朝と同じ駅員ならば聞けるだろうか。
「聞いてくればよかったわ……」
「見つからなかったら帰りに駅員さんに聞きましょう」
 なにぶん初めて遭遇した痴漢だ。勝手がわからないのも無理はないとカナエが慰める。痴漢被害など勝手を覚えるほど受けたくもないけれど。
 学校最寄りの手前の駅へ到着し、混んでいた車内が少し空いた。ホームを歩く人混みをぼんやり眺めながら扉が閉まるのを待っていると、昨日見たあの涼しげな横顔が目に入ってきた。
「………っ、待ってください!」
 これほど焦って叫んだことが今まであっただろうか。しのぶの言葉がまさか自分を呼んでいるとは思ってもいないのだろう、淀み無く歩いて行ってしまう。見失う前にしのぶは電車を降り、驚いたカナエも急いで追いかけてきた。電車の扉が閉まり、そのまま発車して行った。
「あの! すみません、ちょっと!」
 ようやく叫ぶ声に反応し、高校生は足を止めしのぶへと振り向いた。
「……あ、えっと」
 太鼓のような大きな音が心臓から飛び出した。普段より相当早い心臓の音が、しのぶの顔色を変えていく。お礼を言いたいだけなのに、向かい合った途端頬に熱が集まっていくのがわかった。
 緊張している。
 人を呼び止めるために大声を出したのは初めてだ。
「………?」
 何故呼び止められたのかわかっていないような素振りを見せた男子高校生は、しばらくしのぶを見つめた後、思い当たったように少しだけ表情が変わった。
「昨日の」
「は、はい。あの、昨日はありがとうございました。気づいて助けてくださって」
 しのぶを見つめたまま首を振った。気にしなくて良い、ということだろうか。
 男子高校生の口数は極端に少なく、しのぶは彼の意を汲むのに少々考えなければならなかった。
「それで、お礼をしたいんです。連絡先を教えていただけませんか」
「必要ない」
 それだけ言って彼は踵を返して歩き出そうとした。は、と一瞬呆気にとられたが、しのぶは慌てて走り寄った。
「そうはいきません、本当に助かりましたから」
「なら良かった」
「良かったじゃないです! まだ私のお礼が残ってるんです、終わらせないでください」
 困ったような迷惑そうな顔を見せて、男子高校生はもう一度立ち止まった。追いかけてきたカナエが急いで挨拶をした。
「ごめんなさい、急に呼び止めて。私、この子の姉です。昨日はしのぶを助けてくれてありがとうございました。あなたが痴漢を捕まえてくださったと聞いて、両親もお礼がしたくて探していたのよ」
 そろそろ喧嘩腰になりそうな気配を察知したのか、カナエはしのぶが何かを言う前に話を始めた。
「特別なことはしていない。手を捻っただけだ」
「電車から引きずり降ろしてくれましたよね」
「……手を掴んで降ろしただけだ」
「駅員に引き渡してくださいましたよね」
「それだけだ。後は警察がやった」
「あなたが当たり前にやったことでも、私たちは凄く救われたのよ。だからお礼がしたいの」
 迷惑そうな顔は変わらず、彼は黙り込んだ。何故ここまで頑ななのかは良くわからないけれど、しのぶは礼を受け取ってもらうまでは気が済まない。借りを借りのまま置いておくのはしたくない。恩知らずにはなりたくないからだ。しのぶもまた頑固だった。
「おはよう義勇! 遅刻するぞ」
 目の前の彼と同じ制服を着た男子が気安そうに走り寄ってくる。しのぶとカナエに気が付くと、驚いたように足を止めた。
「すまない、邪魔をした。俺はこれで」
 どうやら告白か何かと勘違いをされたようだった。頬を染めて慌ててそばを離れようとする友人らしき人物を見て、彼もまた歩き出そうとした。
「俺もこれで失礼する」
「失礼しないでくださいよ! まだ話は終わってません」
 何と頑固な人なのか。ただお礼をしたいのだと言ったにも関わらず、ともすれば逃げたようにも思える行動をする。昨日の彼はあんなに格好良かったというのに、今は融通の効かない頑固親父のようだ。先程までの緊張とときめいた時間を返せ。
 いや違う。断じてときめいてなどいない。ちょっと他では見ない涼しげな顔は確かに美形だとは思うが、少し話しただけで何だか苛々してしまう。そう、苛々して心臓まで慌ただしく動いてしまっているだけだ。
「私は胡蝶しのぶといいます。昨日あなたに痴漢から助けていただきました。そのお礼をしたいので、お名前を教えて下さい」
 もう一度伝えたいことを口にして、しのぶは良い加減頷いてくださいよ、と心中で毒づいた。しのぶの言葉を聞いた彼の友人が口を開いた。
「こいつは冨岡義勇。ここからすぐ近くの高校に通う二年だ」
「錆兎!」
「大丈夫だ。人からの感謝は素直に受け取っておけ」
 平行線だった双方の言い分に、ようやく助け舟が現れた。冨岡義勇。それが目の前の彼の名前らしい。
「俺は感謝されたくてやったわけじゃない」
「知ってるよ。でも彼女が助かったのも事実だろう」
 難しく考える必要はない。そう言い聞かせるように彼の友人は笑った。溜息を吐いた冨岡は、諦めたようにしのぶへ視線を寄越した。
「俺も痴漢に遭ったことがある」
 瞬きを一つ。男であろうと被害を受けることがあるというのは知っていたものの、知り合いにはいなかった。痴漢の恐ろしさを身を持って知ったしのぶは、その言葉を聞いて眉を顰めた。
「見かけて気分が悪くなった。腹が立ったから引き渡した。誰かの為にやったわけじゃない」
「……怒ってくださったんですか」
 しのぶから視線を外し、腕時計を見て遅刻だな、と呟いた。ひょっとして責められているのか、と考えながら、苦笑いを見せた彼の友人へ目を向けた後にカナエを見つめた。
 見かねて声を掛けてくれたのではなく、同情して自分の事のように憤ってくれたのだろう。先程までの苛々がすうと落ち着いていくのがわかった。
「すまない、義勇は口下手なんだ」
 気分を悪くさせたなら謝る。そう言って冨岡の友人は申し訳なさそうに笑った。やっぱりそうか。一連のやり取りで十二分に理解した。
「ええ、わかりました。すみません、時間を取らせてしまって」
「別に気にしてない」
 これ見よがしに腕時計を見て呟いたことをもう忘れたか、としのぶはじとりと冨岡を見やるが、今はもう怒りが湧くことはなかった。面倒くさそうな人だ、とだけひっそりと思う。
「それはそれとして、両親がお礼をしたいと言っていますので、連絡先を教えていただけますか」
 しのぶが渾身の笑顔を向けて言い放つと、冨岡は茫然とも諦めとも取れる表情でしばし考えた後、ポケットからスマートフォンを取り出した。

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