通学時間の話

 満員電車に慣れたいから、乗る時刻を戻すので一緒に乗ってもらえませんか。
 甘露寺に提案され、意を決してそれらしい理由をつけて打診したしのぶに、冨岡は考える素振りもなく頷いた。乗車時間を変更するわけでもなく、しのぶが同じ車両に乗ってくるだけなのだから何も変わらない。そう口にした冨岡に、有難くも寂しくも感じてしまった。
 更に続けて友達らしくて良いなどと浮つかれては、しのぶもそうですねと返すしかなかった。友達として好意を持ってくれているだけで充分だとは思っているが、こうも意識されていないのは少し悲しい。相手の言動に一喜一憂して気が休まる暇がない。恋とは忙しいものだと改めて思う。しのぶに告白してくれた者たちも、忙しない心臓に休まらなかったのだろうか。
 まあ、意識されていないのはもう仕方ない。それならそれで思う存分友達として仲良くなってやると意気込んだ。冨岡と少しでも同じ時間を共有したくて、世にも恐ろしい満員電車に乗る決心をしたのだから。
「おはようございます」
「おはよう」
 わざわざホームに降りてしのぶに挨拶をした冨岡の後ろについて電車に乗り込み、ドア付近でしのぶを匿うかのように乗客との間に陣取った。閉まったドアを背もたれにして、吊革を掴む冨岡を見上げる。その光景に妙に恥ずかしくなりしのぶは少し頬を染めた。
「人が多くて合流できないから降りてくださったんですね。すみません」
「大抵流されて奥に押し込まれるから」
 カナエと乗った時は座席の前に並んで立っていたけれど、まさか庇ってくれるとは思っていなかった。普通に並んで乗って、普通に会話ができればいいと思っていたのだが、予想外の行動に少々浮かれてしまっている。
 そういえば冨岡の姉は電車ではいつも庇うように立ってくれると言っていた。その行動がしのぶにも向けられるとは思っておらず、恥ずかしいやら嬉しいやらで妙な顔をしてしまっていた。
「どうした」
「いえ。満員電車に早く慣れたいなあと」
「無理に慣れなくても良いと思うが」
 慣れなければ冨岡と通学などできないのだからそこは譲れない。時間を早めてくれるのなら慣れなくても良いかもしれないが、しのぶと通学するために時間を変えてもらうのは、友達として頼むには枠組みから少々外れている気がした。
「それに、満員電車じゃなかろうとああいうことはある」
「えっ」
 何やら恐ろしい言葉が聞こえ、しのぶは思わず声を漏らしてしまった。ひょっとしてそれは、冨岡が体験したことなのだろうか。
「……聞いても良いんですかそれ」
「聞くのか。構わないがここではちょっと」
「ですよね。いえ、やっぱり良いです」
 体験談だとしたら言いたくないだろうし、誰かの話だとしても良い気にはならないだろう。しのぶだってあまり思い出したくない出来事である。
 スマートフォンを操作し始め、冨岡は文字を打ち込んだメモのようなものを見せた。がらがらに空いた車両でドア付近に立っていたら、真後ろに陣取った男がいたらしい。思わず口元を押さえて冨岡の顔を見上げるが、本人の表情は無を映し出していた。
「小柄で大人しそうな学生が狙われやすいらしいな。胡蝶が当てはまっている」
「私大人しそうに見えますか?」
「クラスの連中は大人しそうで守ってあげたいとか言っていたから、黙って立っていれば見えるのだろう。……俺には見えないが」
 道場で良く見ているから、と冨岡は口角を上げてしのぶを見た。黙っていればなどと失礼なことを口にされ思わずむっとしかけたのに、稽古時の自分を良く見られているという事実にまた羞恥と心の浮つきを感じる。放っておくとすぐ熱くなる自分の頬を必死にコントロールしようとするが、うまく誤魔化せそうになかった。
「赤くなるほど怒らなくても」
「怒ってません。電車の中暑いんです」
 そうか、と首を傾げながらも怒っていないのならと相槌を打った冨岡に、一緒に通学は早まったのではないかと思い始めてきた。まだ一日目なのに、このままでは身が持たない。目の前に立たれているだけでも照れてしまうくらいだ。せめて横並びならばここまで緊張しなかったと思うのだが。
 その後も車内の迷惑にならないよう控えめな声量で会話をしていると、車掌のアナウンスが冨岡の降りる駅を告げた。あと五分ほどで停車する予定だ。
 心臓は忙しないものの、もうそんなに経ってしまっていたのかとしのぶは少し残念に感じた。同時に冨岡が降りた後の残りの一駅が少々不安になってくる。冨岡の空いた電車内での話を聞いてしまったせいもあるかもしれない。
「……聞かないほうが良かった気がします。冨岡さんのあの話」
 スマートフォンで教えてくれた話のことだと察したらしい冨岡は、申し訳なさそうに謝った。気をつけろと言うつもりで教えてくれたのだろうし、聞いたのはしのぶ自身なので謝られるいわれはない。首を振って否定を伝える。
「大丈夫です。一駅くらいすぐですし」
「ああ、耐えられたらご飯でも奢ってやろう」
「それは楽しみですね」
 ご飯! と心中で飛び上がったしのぶは笑みを向けた。道場以外で一緒にいる時間ができそうな気配に嬉しくなる。どう考えても甘すぎるし子供扱いされているような気もするが、しのぶは無視して喜ぶことにした。
「帰りは大丈夫なのか」
「そうですね、帰りは同じ方向の誰かがいると思うので……いなくても空いてるだろうし……ああ、空いててもあるんでしたね」
「………。誰もいないのなら俺に言え。宇髄に捕まっていなければたぶん帰る時間は胡蝶と同じくらいだと思う」
 顔を上げると冨岡は眉尻を下げてしのぶを眺めていた。どうやら痴漢の話をしたことを気に病んでいるようだが、そこまで世話になっていいものだろうか。俺に言えなどと、その日の予定を都度メッセージで確認しろということだろう。もし宇髄に捕まっていても、ひょっとして冨岡なら来てくれてしまうのではないか、なんて考えてしまう。
「そ、そこまでお世話になるわけには……それにほら、見ず知らずでも女性の近くにいれば大丈夫でしょうし」
 さすがにいたたまれなくてしのぶは断ろうとした。この優しさを冨岡の姉や真菰は当たり前に受けているのかと思うと、同じように受けている自分が大変な特別扱いなのではないかと考えてしまった。
「そうか。何かあったら言え。錆兎も真菰もいる」
「ありがとうございます……」
 すぐ引き下がった冨岡に少し拍子抜けしたものの、気にかけてくれていることが良くわかったしのぶは更にそわそわと落ち着かなくなった。
 電車が駅のホームへ到着し、冨岡に手を振って去っていくのを眺めた。淀みなく歩いていく後ろ姿に、同級生らしい男子高校生が声をかけている。ドアが閉まり発進した車内でしのぶは鞄を抱えて深呼吸をした。
 これ、明日以降も耐えられるのだろうか。やはり早まったのではないかと思い始めていた。

*

「大丈夫でしたよ」
 何が、と目で問いかけてくる冨岡に、昨日の残りの一駅と帰りの電車のことだと告げた。納得したように頷いて労いの言葉を口にした。
「奢ってくださるんですよね」
「それで耐えたのか。現金な奴だな」
「そりゃもう人のお金で食べるご飯は美味しいですから」
 呆れたような顔をした後、少しだけ笑みを見せた。電車内だからか道場で見る時ほどではないけれど、控えめながらもしのぶへ向けられた笑顔に相変わらず浮ついてしまう。今日行くのか、と予想外の言葉に驚いてしまったものの、心中で残念に思いながらしのぶは否定した。
「うち寄り道禁止なんです」
 ぎょっとした冨岡がしのぶを見つめる。初等部から通っているので普通だと思っていたのだが、冨岡の通う高校は自由な校風だし、しのぶの通う女子校の校則が厳しいことは冨岡たちと知り合ってからようやく気づいた。
「そういえばお嬢様だったな」
「そういえばって何ですか、失礼な。家に帰って着替えれば大丈夫なんですけど、先生は見回ってるらしいです」
「そうか。厳しいな」
 そう、厳しいのだ。品行方正な優等生で通ってきたしのぶがそれを自覚したのは最近だが、クラスメートのごく一部は意外と校則を無視している子もいたりする。教員にバレないようにはしているようだったが。
 そういうわけで、冨岡の問いかけは心底残念ではあるが、平日の門限も早いしのぶには断る以外になかった。稽古の帰りにどこかに寄るのが現実的だろう。どうやら奢る話は受け入れてくれているようだし。
「稽古の帰り、如何ですか? 真菰さんと錆兎さんも誘って。今週姉さんが行くと言ってましたので五人です」
「……全員に奢るのか、俺が」
「え? そんなことは言っていませんよ。真菰さんのおねだり攻撃を冨岡さんがかわせるのなら、私の分だけで。姉さんも一緒になってやるかもしれませんけど」
 所持金を脳内で確認でもしていそうな表情を見せた冨岡を眺めながら、しのぶはかわせないのだろうなあと考えていた。真菰のおねだりをする時の目は同性のしのぶすら即頷いてしまいそうなほど強力なものだ。冨岡も錆兎も断っているところを見たことがなかった。
「……お手柔らかにしてくれ」
「仕方ないですね。そういえばこの間駅前にたい焼き屋さんができてるの見かけました。それで手を打ちますよ」
「そんなもので良いのか。意外と有情だな」
「さっきから私のこと何だと思ってるんです?」
 たい焼き四人分ならと何やら本当に全員分奢る気になったらしい冨岡は頷き了承した。押せば割と何でも頷いていそうで少々心配になってしまう。
 満員電車を耐えたご褒美らしさは消えてしまったが、五人でいるのも楽しいのでしのぶとしては構わなかった。急に奢られた皆は何事かと驚くかもしれないけれど。
 停車のアナウンスが聞こえ、電車の速度が遅くなった。冨岡の降りる駅のホームへ入っていくのが見える。今日は昨日よりも随分落ち着いて話すことができたと思う。何やら冨岡はしのぶに対して嬉しくない印象を持っているような気もするが、そのあたりは今度問いただすことにする。
 鞄のポケットを探り始めた冨岡を眺めていると、手を出せと一言呟いた。何だと問う前に手のひらに置かれたのは、封の開いていないガムだった。
「良く頑張った」
 車両が停車しドアが開く。口元に弧を描いて一言発し、また明日と声をかけて降りていった。
 恐らく自分用に買っていたものだろうガムを、まるでしのぶの思考を読んだかのように渡してきた。良く頑張ったと告げた冨岡の言葉を何度も反芻しながら、渡されたガムを握り締める。友達同士なら何気ないやり取りのはずだった。やっぱり子供扱いされているような気はしたが、それでもしのぶは結局今日も頬の赤みを抑えることができなかった。

*

「おはよう胡蝶」
「おはようございます、錆兎さん」
 冨岡が委員会の用事で早めに学校へ向かうと連絡が来たので、しのぶもその日は合わせようか、さすがに露骨すぎるかと悩んでいた時だった。続けて届いたメッセージには錆兎に頼んだと一言書いてあった。先を越されたような気分になりながらも、しのぶは有難く厚意を受け取ることにした。
 錆兎を見かけて電車に乗り込み、座席の前で並んで立つ。
 冨岡よりも早めの時間に通学しているという錆兎に、最初に会った時は冨岡の後から来ていたのを思い出して指摘すると、寝坊して遅刻しそうだったのだと呟いた。
「しかし人が多いな。義勇もこんな時間に乗らなくても良いのに。二人とも時間を早める気はないのか?」
「冨岡さんが早く行くようにするなら、私も合わせようかとは思いますけど」
「わざわざ満員を選んで乗らなくても。まあ二人とも問題ないのなら良いんだが」
「問題……と言われると、私が冨岡さんに頼んだのは問題といえるものではありますね」
 満員電車が怖くて一人では乗れないというのは、錆兎の言う問題なのではないかと考えた。
 今は誰かと話しながら乗っているおかげで落ち着いているが、一人だとやはりまだ怖く感じる。無理に慣れなくても良いと皆口にするのだが、社会に出たら周りのように満員電車に揺られることだってあるはずだ。その時乗れないでは就職活動にも支障をきたしてしまうだろう。
「私ったらすっかり頼ってしまって」
 仲良くなるという別の思惑があったわけだが、冨岡に頼り続けるのも何か違う気がする。二人で電車に乗るだけでトラウマが克服されるわけでもない。かといってどうすれば怖くなくなるのかなど、しのぶには思いつかなかった。
「一応言っておくが、義勇は全く気にしていないぞ」
「……まあ、それは何となくわかってますけど」
 最初から頷き一つで了承していたし。しのぶが頼んだのだからしのぶが冨岡を煩わせずに合わせるのは当たり前だと思っている。毎度車内から降りられるのが申し訳ないと思うくらいだ。いつも奥から出てくるので、降りてもらわないと合流できそうにないのはわかっているのだが。
「あいつ、胡蝶と話すのが楽しいらしいからな。慣れたら一人で通学するものと思ってるから、満員電車には慣れないでやってくれ」
「は、はあ……そうですか、わかりました……いや、慣れないと今後が……」
 しどろもどろになりながら言葉を返して、しのぶは必死に錆兎の言った内容を飲み込もうとしていた。さすが幼馴染である。錆兎もしのぶの頬に熱を持たせるのが上手かった。他意はないと思っても、どうしても反応してしまう。
「今後のことは確かにそうだな。じゃあ慣れても黙っておいてくれ。喜んでたから」
「喜ん……友達と一緒に学校くらい行くことあるでしょうに」
 誰かと待ち合わせて通学するなんてこと、錆兎たちならいくらだってしてきたはずだ。しのぶは電車通学に慣れていない上、男の子と一緒にというのが初めてなので最初は本当に緊張したけれど。
「わかっていないな。義勇が喜んでるのは胡蝶と一緒に通学することだぞ」
 真面目な顔をして錆兎がとんでもないことを口にする。しのぶは冨岡ほど表情を隠すのが上手くない。友達として、と文頭についているはずなのに、頬に熱が集まるのを止められそうになかった。
「正直に言うと、俺たち女子のことはかなり避けていたんだ。色々あったから。胡蝶だって身に覚えあるだろう」
 冨岡と真菰と三人でいると、思春期あたりでやたらと揶揄われたり邪推されたりと面倒なことが起きていたらしい。女子校育ちであるが故そもそも男子と知り合う機会はほぼないはずなのに、通学時に声をかけられたりすることが多かったので、しのぶも男子のことを避けるようにしていたことがある。今だって良く知らない男性とは関わりたくないと思っている。
「あいつ友達作りも下手だからな。胡蝶と仲良くなって嬉しいんだ」
「初会話は酷いものでしたしね」
「すまん。あれ蔦子と俺たちが注意したせいだ。まあ元々の口下手もあるけど」
「もう気にしてませんよ」
 美人姉妹と言われることは良くあるけれど、それのおかげで男子を避けるようになったのも事実だ。女子のやっかみも面倒だった。カナエは持ち前の穏やかさで敵視していた女子とも仲良くなったりするけれど、気の強いしのぶは呼び出されて文句を言われることも良くあった。更に言い負かしてしまうから余計に印象が悪くなるのだ。きっと三人も男女双方から色々言われたことがあるのだろう。
「まあ、だから俺たちも嬉しい。俺たち全員と仲良くなる女子は初めてだったし」
「全員と仲良くならないと、仲が良いところが見られないじゃないですか、勿体ない。私も姉も楽しく眺めていますよ」
 少々羨ましくなるくらいだけれど、一生仲が良いのだろうと容易に想像できてしまう。羨ましさの他に微笑ましさも滲んでくる。鱗滝の弟子たちは皆仲が良いので、見ているだけでささくれ立った心も穏やかになりそうなくらいだった。
 目を瞬かせてしのぶを見つめた錆兎に、どうかしたかと問いかけた。
「……いや。道場に来たのがお前たち姉妹で良かった。義勇のことはまあ、胡蝶の思う範囲で仲良くしてくれると嬉しい。あいつはあの口下手のせいで誤解されることもあるから」
 理解者が増えるなら喜ばしい。まるで保護者のような言い方に思わず笑ってしまったが、しのぶもそのために通学時間を戻したのだ。さすがにそれを錆兎に言うのは無理だが、できる限り知りたいと思うほど好意を持っているのだから。

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