バレンタイン 真菰

「よし、これで後は固めるだけだね。ケーキも問題なさそうかな」
「そうですね」
 オーブンを覗き、形作ったチョコレートを冷蔵庫に移動させ、安堵の溜息を吐いて真菰は隣にいるしのぶをダイニングへ促した。キッチンには甘い匂いが充満し、使い終わったボウルがシンクに並べられている。
 二月十四日。所謂バレンタインデーに渡すためのチョコレートを手作りしている最中だ。
 道場の門下生たちや鱗滝夫妻には、毎年真菰は作って渡していた。一人一人にラッピングするほど凝っているわけではないが、ケーキを作ったりトリュフを作ったりと、真菰自身も楽しんでいた。
 今年は女子が増えたので確認のために聞いてみたのだが、しのぶは困ったような顔を見せて、周りに聞こえないよう声を潜ませて問いかけてきた。
「私その、そういうのが初めてで」
 聞けば女子校では貰う専門だったようで、人にあげたことがないのだと言った。
「女子校ですから、格好良い先輩とかいらしたら、そこに人気が集中するんですけどね。私にもチョコレートを渡してくれる子がいて」
「やっぱ凄いんだね、しのぶちゃん。友チョコとは違うんだ」
「友チョコ。そういうのもやったことがないんです」
 今年は道場に通い始めたことだし、錆兎や義勇がいるし、と感謝の気持ちをバレンタインに渡したいのだそうだ。
「本命は渡すの?」
 小さな声で聞いてみると、しのぶは頬を赤らめた。眉間に皺を寄せて悩んでいるような様子だった。
 正月に初日の出を見た後、しのぶは真菰の家に泊まった。その際にしのぶが口にした言葉に、真菰はこれまで以上に応援する気持ちが沸き立った。
「冨岡さんが好きなんです」
 頬を真っ赤にして教えてくれたしのぶを見て、真菰は見惚れてしまった。世の女子高生はきっとこんなふうに恋の話で盛り上がるのだろう。
 予想以上にはしゃいでしまったのか、しのぶは真菰の反応に面食らっていたようだった。他でもないしのぶがはっきりと口にした想いは、真菰が勘付いていたものと違いはなかった。真菰の好きなしのぶが義勇を好きだと言うのだ。何より教えてくれたことが嬉しかった。
 眉尻を下げてこちらを見つめるしのぶは手元をそわそわと動かして落ち着きがない。可愛いなあ、と真菰は何度目かわからない感想を抱いた。
 義勇は自分では気づいていないようだけれど、きっとしのぶを意識している。初詣の日は一切の照れが見えなかったものの、しのぶの手を引いて人混みをすり抜けて来た。真菰ならばそういう気遣いの仕方ではなかったはずだ。義勇の両肩に手を置くなどして、真菰が義勇に捕まりながら抜け出したのではないだろうか。義勇はしのぶを真菰とは違う女の子として扱っている。クラッカーでも鳴らしたい気分だった。
「しのぶちゃん、凄いね」
「な、何がですか?」
 義勇を意識させたことが。しのぶは義勇がどう思っているのかわからず自信がないようだが、義勇はそもそも自分から女子に近づこうとはしなかった。真菰からすればこれほどわかりやすいものはない。しのぶだから仲良くしているのだ、きっと。
「わ、凄い良い匂い」
 オーブンのタイマーが鳴り、扉を開けると腹を刺激する匂いが立ち込めた。チョコレートを使ったスフレチーズケーキは初めて挑戦したのだが、見た目も匂いも満足のいく出来に仕上がったと思う。
「美味しそう! 目の前にあると食べたくなるよね」
「ふふふ、そうですね」
 レシピ通りの分量で作ったのだから、味は恐らく大丈夫だと思う。真菰は特別な日にしかお菓子作りはしないが、どの時も失敗はしていなかった。しのぶも一緒に作ったのだから間違いないだろう。
「よし、この調子で二個目も……」
 準備していた二つ目のケーキの生地を角皿に置いて、湯を入れてオーブンをセットする。粗熱が取れたらラッピングをして、明日道場へ持って行く。皆毎年喜んでくれるのだから作り甲斐がある。
 冷蔵庫で固めているチョコレート用のラッピングは、真菰は使用しないものだ。しのぶが厳選に厳選を重ねて、ひときわ簡素でシンプル……あくまでお歳暮に見えそうなものをと思って買ってきたそうだ。
 お歳暮とはしのぶの言だが、真菰からすればこの時期のラッピングはすべてバレンタイン用と言っても過言ではないだろう。はっきり言ってしのぶが買ってきたものも無地のシンプルな箱というだけで、場合によってはそういうものを好んでバレンタインに使う人もいるはずだ。箱を包むリボンやシールは可愛らしいものを選んできたようだし、お歳暮なら百貨店の包装紙とか熨斗とか巻かれているのではないだろうか。しのぶには言わないけれど。
「一番綺麗な形のやつ選ぼうね」
 シンプルな箱にグラシンシートを敷いておく。余ったものはしのぶと二人で食べることに決めている。それくらいの特権があっても良いだろう。
 冷蔵庫からチョコレートを取り出し、包丁で慎重に切っていく。一通り切り終わりしのぶは詰めていた息を吐いた。ココアパウダーを振りかけて、崩れないよう箱にそっと敷き詰めていく。綺麗に出来たのではないだろうか。
 箱からはみ出していたグラシンシートをチョコレートの上に被せ、英語の書かれたシールを貼り付けた。蓋を閉め、ラッピング用のリボンでしっかりと結ぶ。
 出来上がった箱を眺めて、真菰はしのぶと笑い合った。
 余ったチョコレートをつまむと、少しだけ苦味が口の中に広がった。柔らかい食感は正しく生チョコだった。美味しいと感想を伝えると、しのぶも一つ口へと運んだ。
「本当。好きな味です」
「よし! 後はスフレを箱に入れて出来上がりだね」
 組み立てた箱にケーキを入れて蓋をする。丁度オーブンのタイマーが鳴り、二つ目のケーキが焼き上がった。
「早く食べたいなあ。美味しそう」
 オーブンからケーキを取り出す。一つでは人数分行き渡らないからと二つ作るのだが、毎年先に食べてしまいたい欲求と戦う羽目になる。
「こっちで我慢しましょう。でももうこんな時間ですね」
「あー、さすがにもう遅いね。一個食べちゃったけど」
「味見はカウントしません」
 今年のバレンタインデーは休日だったので、余裕を持って作ることができた。しのぶはこのまま泊まる予定であり、明日は真菰の家からケーキを持って行く。
 真菰が作るだけならば、平日だろうと道場に行けばバレンタインデーは全員揃っていてくれる。しのぶの家は少し離れているから毎日来られるわけではないし、今年は運が良かった。来年はまた考えて渡すことにしようと真菰は考えた。
 翌日、紙袋を持って家を出た。いつも通り稽古をした後、鱗滝家の食卓にお邪魔してケーキを振る舞う。二つを六等分すれば十二切れ。門下生と鱗滝夫妻を合わせて九人で卓を囲んだ。残り三つはじゃんけんだ。
「真菰と胡蝶が作ったのか」
「すごく美味しそうですね!」
 ケーキを目にして喜ぶ姿は、真菰にとって見慣れていても嬉しいものだった。
「美味い」
「凄いな。チーズケーキか?」
「そう! チョコスフレチーズケーキだよ。昨日食べたくて仕方なかったんだから」
「食べても良かっただろうに」
「我慢したの。皆と食べるほうが美味しいから」
 皆のフォークが進み、お世辞ではなく美味しいと口にしてくれた。真菰としのぶは顔を見合わせて笑う。
「ふふん、やったねしのぶちゃん」
「ええ。頑張った甲斐がありました」
 おばさま二人は買い物があると早々に帰り、中学生の門下生もまた実家の手伝いがあると言って帰って行った。皆帰り際にも美味しかったと口にして、真菰たちを喜ばせた。
 後は錆兎を義勇からそれとなく離し、しのぶが声を掛けられるよう一人にさせたい。頼まれたわけではなく、真菰のただのお節介でしかない。錆兎だって目撃したところで揶揄うようなことはしない。それでも事情を知っていると、どうにも何かしてしまいたくなった。
 錆兎を連れて道場を出て真っ直ぐ帰ろうとしたのだが、コンビニで見たいものがあると言われ、渋々真菰は付き合うことにした。駅へ向かうのも義勇の家もコンビニを通るのだが、もし見つかった時チョコレートを渡していない状況だったら、真菰たちは完全にお邪魔虫になってしまう。
 そわそわと鞄を漁ると、真菰は忘れ物をしたことに気がついた。何やってるんだと錆兎に聞かれ、項垂れたまま真菰は答えた。
「スマホ忘れた……」
「そそっかしいな。近いし取りに戻るぞ」
「や、明日でいいよ」
「明日取りに行くまで我慢できるのか?」
「あー、そしたら私取りに行ってくるよ。錆兎は待ってて。帰っててもいいよ」
「何で? 俺も行くよ。コンビニ付き合わせたんだし」
 義理堅い錆兎は良い奴なのだが、今回ばかりは恨めしい気分になってしまった。上手い断り文句を思いつかず、鉢合わせないように祈りながら来た道を戻った。
 道場の玄関前には大きな岩や松の木が立っていて、死角になる場所は比較的多く、その上街灯は少なく辺りは薄暗い。玄関先に誰かがいたとしても向こうからは見えにくいだろう。なんて思っていると、明かりのついた玄関前に本当に人影が見え、真菰は反射的に身を隠した。
「何だ?」
「しーっ」
 錆兎に声を立てないように注意をし、真菰はここからどうすべきかを考えた。時間をずらそう。二人が帰ってから取りに来ればいいと考え、錆兎を連れて塀から離れようとした。
 ちらりと見えてしまった義勇の表情。自慢じゃないが視力が良い真菰は、一瞬驚いて固まってしまった。
 箱のようなものを手に持っていたから、きっとしのぶはお礼とともに渡すことができたのだろう。義勇なら笑ってありがとうと言うだろうけれど、あんな笑顔を見たことがなかった。
 嬉しそうな幸せそうな、見てしまった真菰すら頬を染めてしまうような笑顔だった。
 固まっていた真菰の腕が引っ張られ、振り向くと錆兎は黙ったまま塀から離れた。
「戻りたがらないから何かあるとは思ってたが」
 スマートフォンを人並みに使う真菰を知っている錆兎は、近いのに何故か戻ることを躊躇する真菰を不思議に思っていたようだった。見るつもりなんてなかったはずなのに、真菰は頬の熱が収まらなかった。
「お礼したいんだって言ってたの。確かに邪魔しないようにしようと思ってたけど」
 告白するつもりで渡そうとしていたわけではないことを真菰は知っている。しのぶはお世話になったからという建前で渡しているはずだった。義勇の顔はそんなふうにはとても見えなかったけれど。
「ああ」
 錆兎も見えたのだろう、少しだけ照れたような顔をして、それ以上何か言うことはなかった。
 あんなの意識していなければ出来ない表情なのではないか。好きな人の話をする女子と似た顔をしていたような気がする。自分に向けられたものではないのに、真菰は無性に照れてしまった。

義勇視点
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