ホワイトデー その後

 家に帰ると姉が大層驚いた顔をして、何があったのかと問いかけてきた。どうやら泣き腫らした顔をしていたらしい。
 感情の浮き沈みは大きいことは自覚しているが、怒ることはあっても、目を腫らすまで泣くことはあまりなかった。カナエが心配するのも当たり前のことだろう。
 とはいえ何があったかなど今は話す気にはなれず、何でもないと自室へ逃げるように閉じこもった。少しの間だけ、浸っていたかったのだ。
 鞄を小さなテーブルに置いて、ベッドへうつ伏せに飛び込んだ。目を瞑ると先程までの出来事がありありと思い出せる。子供のように泣き喚いてしまったことは恥ずかしいが、それに勝る嬉しい出来事だった。
 思い出したようにしのぶは体を勢い良く起こし、鞄とともにテーブルに置かれた紙袋へ視線を向けた。ベッドから降りて正座をする。割れ物を扱うかのように紙袋から箱を取り出した。
 手のひらサイズの小さな長方形の箱は、綺麗にリボンが巻かれている。そっと解いて箱を開けると、しのぶの目にカラフルな色が飛び込んできた。
 表面にデコレーションが施されたマカロンが並んでいる。まさかこんな可愛いものを冨岡が渡してくるとは意外だった。
 花やレース、リボンを模したデコレーションがしのぶの目を輝かせる。綺麗、と一人呟いた。
 こんなものを渡されては、冨岡からの言葉がなくても深い意味があるのではと悶々としていただろう。スマートフォンでホワイトデーのマカロンの意味を検索し、しのぶは頬を染めた。あの冨岡がこれを、しのぶのために買ったのか。意味を調べて買ったのだろうか。
「……あら?」
 マカロンをもう一度眺めた。リボンだと思ったデコレーションは、結び目の筈の真ん中部分から上部に飛び出た二本の線がある。少し考えて、しのぶはこの線が触角であることに思い至り、デコレーションが蝶を模していることに気がついた。
 どこまで可愛いことをするのか。言葉にならない呻き声を漏らしながら、両手で顔を覆いカーペットをのたうち回る。テーブルの脚に何度も体をぶつけるが、構っていられない。言い表せないこの沸き立つ感情が、しのぶを冷静にさせてはくれなかった。
「……気を遣われたんだわ」
 しばらくそうして悶えていたのだが、ふと錆兎と真菰が別方向へ向かって行ったことを思い出した。恐らく錆兎の持ってきた蕎麦スイーツと同じ日に買いに行っただろうから、今日冨岡がお返しを用意していることも錆兎は知っていた筈だ。
 バレンタインデーに真菰がさりげなく手助けしてくれたことを知っている。二人の気遣いが嬉しい反面、しのぶは顔から火が出そうなくらい恥ずかしさを感じ、再びごろごろとカーペットを転がり回った。
「しのぶ、ご飯よ。食べられる?」
 ノックとともに姉の声が聞こえ、静止の声を上げる前にドアが開かれた。起き上がりかけた体勢でカナエを迎え、驚いた顔がテーブルに広げられたものへと向けられる。
「あっ。あらあら、ごめんねしのぶ。わああ」
「ちょっと、やだ! そのまま行かないで姉さん!」
 満面に喜色を滲ませたカナエが慌ててドアを閉めようとするが、しのぶは必死に引き止めた。今何かを言われるのも困るのだが、黙って去られるのも困る。カナエは全て察したようだった。
「でも浸りたいでしょ?」
「それはそうだけど。いや違うわよ、やめて、待って」
 引き止めに成功したカナエは部屋に足を踏み入れてドアを閉めた。にこにこと自分の事のように嬉しそうだった。
「良かったわね。冨岡くんでしょう?」
「……そうだけど」
「姉さん見ないようにするから早く閉めて」
 箱の中身をこれ以上見ないように顔を背けながらカナエは言った。しのぶは箱を片付けてそばに座るカナエへ目を向ける。鞄にはプリンも入っていたことを思い出し、冷蔵庫に入れるために取り出した。
「これは錆兎さんと冨岡さんからよ」
「真菰ちゃんと作ったケーキのお返し?」
「ええ。真菰さんがリクエストしたの」
 美味しいわよねえ、とプリンを見ながらカナエは笑った。二人以外の道場の人たちからも焼き菓子を貰っていたので、今日は持って帰ってくるものが多かったのだ。
「泣き腫らした顔してるから何事かと思っちゃったわ。良いことがあったなら良かった」
「私だってこんな顔になるとは思ってなかったわよ」
「嬉しかったんでしょう? だったら泣いたって良いじゃない」
 腫れても可愛いわよ。カナエはしのぶへ笑顔を向ける。いつもより優しい笑顔だ。
 しのぶが冨岡への想いを認める前から見守ってくれていたカナエは、今のしのぶの様子を見て素直に喜んでいるようだった。
「一つだけ聞いても良い? 気持ちは伝えたのよね?」
「う、ん」
「きゃー! そうなの! やったー!」
 しのぶへ抱きつきながらカナエは歓声を上げた。力が強い。興奮が収まらないようだった。
 階下から二人を呼ぶ声が聞こえた。夕飯に二人とも降りてこないからだろう。空腹でもあるし行かなくてはならないのだが、しのぶの目はまだ腫れたままだった。
「普通にしてれば聞いてこないわよ。しのぶは笑ってれば良いの」
 肩を叩いてカナエは笑った。悪あがきのように前髪を少しだけずらしてしのぶはカナエと部屋を出た。

*

 真菰の反応はおおよそカナエと同じくらいのテンションだった。
 歓声こそ上げなかったが、しのぶを持ち上げて回転するなどという体勢を取らされ、ここが道場で良かったと心底思った。
「それじゃあ今二人は付き合ってるんだね」
「え?」
 疑問の声を漏らしたのはしのぶと冨岡両方だった。真菰はきょとんとした顔を向け、錆兎は何やら複雑な顔を見せた。
 付き合う。そういえば確かに、少女漫画でも告白の次はそうなるのが普通だった。でも思い返してみると、冨岡は一言も付き合ってほしいなどとは口にしなかったし、しのぶもそんな次のことなど頭になかった。ただ気持ちを確認し合っただけというのが現状だ。
 ホワイトデーの翌週電車で会った時も、冨岡は普段と変わりなかった。しのぶは泣いたのも相まって少々気恥ずかしく緊張していたのだが、いつもよりほんの少し柔らかい笑みを向けるだけで、冨岡は今回の件について何も言うことはなかった。返事は必要ないと言っただけのことはある。
 隣に座っている冨岡へ目を向けると、彼もまたしのぶへ視線を向けていた。眉間に皺を寄せて。
「お前たちがそれで良いなら良いとは思うが、」
 言いにくそうに錆兎が口を開いた。真菰は何かを察したのか、あー、と言葉にならない声を漏らしている。
「お互いが特別ならまだ言うことがあると思うぞ」
 俺も詳しくは知らんが。少々照れた表情を見せて錆兎は言った。しのぶにとって冨岡が特別なのはわかりきっている。そうだ、すっかり頭から抜けていた。恋をして想いを伝えても、まだ残っていることがあった。しのぶの頬に熱が集まる。
 告白自体は冨岡が先にしてくれたのだから、次はしのぶが言う番ではないだろうかと考えを巡らせていたのだが。
「……そうか。胡蝶、俺はお前が好きだから付き合ってほしい」
「も、もうっ! 私が言おうと思ったのに!」
「わあ。私たちここで聞いてて良かったのかな?」
「……まあ、仕方ない。義勇だからな」
 晴れて恋人同士となったのは、ホワイトデーの翌週の土曜日だった。
 この場合この日が記念日になるのかと考えるのは、もう少し先の話だったが。

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