いざ鱗滝道場へ

「おはようございます、冨岡さん」
 駅の改札で男の子と待ち合わせ。それだけならばデートと勘違いされてもおかしくないシチュエーションだが、しのぶのそばには姉のカナエがいる。合流した男の子とこれから向かうのは、花の女子高生が訪れるには少々武骨にも思える場所だ。
「今日はよろしくお願いします」
「ああ」
 美人と評判の胡蝶姉妹を前にしても、喜色を見せることのない男の子。冨岡義勇は案内のために駅まで迎えに来てくれた。これから武術の先生の元へ二人を連れて行くためだった。
 普段降りない駅はのどかだが、しのぶの家の最寄り駅より少しだけ栄えているようで、大きなショッピングビルが近くにあった。
「楽しみねえ、道場なんて初めて行くから」
「姉さん、遊びじゃないのよ。まだ決まってないんだから」
 しのぶが護身術を学ぶためには、まず道場主と話をして了解を得なければならないのだ。そのための機会を冨岡が作ってくれた。
 とはいえ、カナエが楽しみにするのも理解できる。好奇心は人並みにあるしのぶたちにとって、初めて見る武術の見学は興味がある。体育の授業ではやったことのないものだ。
 歩くこと十数分。住宅街に足を踏み入れた頃、冨岡があれだ、と声を上げた。古い和風の一軒家のように見えるが、奥に道場があるらしい。
 鱗滝と書かれた表札の門を開け、広い庭を見渡した。松の木があり、通路を挟んで大きな岩がある。蛙の置物が鎮座していた。
 胡蝶家は洋風の一軒家だ。何だか物珍しく、姉妹二人は興味の赴くまま庭を眺めた。
「おはようございます」
 引き戸を開けて冨岡が声を掛けた。奥から誰かの話す声が聞こえてくる。
「おはよう義勇! ねえコンビニの新商品のアイス食べたくない? 今日最初に負けた人の奢り賭けようよ」
「道場全員分らしいぞ。そのアイス本当に美味いんだろうな。あ、」
 奥から顔を出したのは、袴を着た同年代の男女二人。一人は見覚えがあった。二度目に冨岡を見かけた時に話しかけて来た男の子だ。
「えっ、誰?」
「胡蝶だ」
「説明を所望してるんだよ義勇」
 興味津々にこちらを眺めてくる女の子は、冨岡の顔を見たり視線が忙しない。義勇が女の子連れてきた! と奥へと走って行ってしまった。
「あー、前に駅で会った?」
「はい、胡蝶しのぶです。今日はこちらの道場主さんにお会いしたくて、冨岡さんに無理を行って連れてきてもらったんです」
 少しも説明してくれない冨岡に溜息を吐きたくなりながら、しのぶは今回の訪問の理由を男の子に伝えた。カナエも笑顔を見せて挨拶する。しばらくして道場主らしい男性が顔を出した。お爺さんと呼んでも差し支えないくらいの年齢で、優しそうな人だった。
「君たちがそうか。どうぞ上がってくれ」
「今日はお時間取らせてすみません。お邪魔します」
 頭を下げて靴を脱ぎ、玄関へと上がり込んだ。廊下の突き当たりの引き戸を開けると、広い板張りの部屋が視界に広がる。ここが武術を習う道場らしい。
 きょろきょろと部屋を見渡して、しのぶとカナエは感嘆の声を上げた。今まで触れることのなかった場所だ。
「おはようございます」
 道場主に負けず劣らず優しそうな年配の女性が声を掛けてきた。合気道がやりたいんですってね、と和やかに会話が始まる。冨岡はしのぶたちを女性に任せたのか、さっさと別の部屋へ行ってしまった。
「そうなんです。私みたいに体が小さくてもできるものがあると聞いて」
 今までの変質者騒ぎに加え、先日の電車での出来事をぼかして説明した。とにかく一人でも対処できるようになりたいのだと女性へ伝える。
 合気道が女性でも習えるのは確かだが、変質者に対処できるようになるとは限らないと女性は口にした。どれだけ腕に自信があっても、危ない橋は渡ってはいけないと諭されてしまった。護身術としても大事だが、何か起こる前に逃げられるようになるのが先決であり、合気道の稽古を通してその能力を身につけていくと良いとしのぶへ言い聞かせるように話してくれた。
「はあ、成程……倒すことしか考えていませんでした」
 お転婆ねえ。女性の言葉にしのぶは頬を染めた。気が強いのは自覚しているが、お転婆と言われたのは初めてだった。
「それはその……冨岡さんが」
 急に名前が上がったことに驚いたのか、袴に着替えて道場へと戻って来ていた冨岡がしのぶへと視線を寄越した。彼が何かしたのかと女性が驚く。
「あ、いえ、以前助けてもらった時にこう、男性の腕を捻り上げていたものですから、凄いなと思って。私も出来るようになれないかと」
「そうだったの。憧れちゃったのね」
 本人の前で笑って口にした女性の言葉に、断じて違うと叫びたくなったのだが、しのぶは縮こまることしかできなかった。実際、格好良いと思ったのは事実だ。あくまでほんの少しだけ。
「ということは、もしかしてここ通うの? 同世代の女の子いなかったから嬉しいなあ」
 女性との会話に入ってきたのは、玄関で顔を見せた女の子だ。合気道は近所のおばさま二人、道場主の男性が教える武術は冨岡とその友人、そして中学生が一人。生徒はごく少数しかいないらしい。
「えっと、あなたは合気道を習ってるんですか?」
「ううん、私は古武術しか教わってないよ。たまに稽古の一環で技受けたりするけど」
 どっちつかずになるのは嫌だから。そう笑った女の子は可愛らしく、見た目はとても武術をやっているようには見えなかった。
 女性は誠実で、しのぶが肩肘張っていることを察して、合気道とどのように向き合っていくと良いのかを教えてくれた。生徒の女の子も優しそうだ。しのぶは稽古を受けるならばこの女性に習いたいと感じていた。
 見た目につられて寄ってくる有象無象の男たちとは違い、冨岡も友人の男の子もそんな素振りを見せなかった。女子からやっかみを受けることもしばしばあるしのぶは、穏やかな空気を醸し出す道場の人たちに好感を持った。
 勿論稽古の最中は柔らかかった空気は一気に霧散し、厳しい声や床に叩きつけられる音が飛び交っていた。初めて見る組手というものに最初は驚いたものの、皆が真剣に取り組んでいる姿は素直に格好良いと感じられた。

「今日はありがとうございました。来週からよろしくお願いします」
 鱗滝夫妻に挨拶をして、しのぶとカナエは道場を出た。カナエは付き添いで一緒に来ることもあるが、部活と掛け持ちできると判断するまではしのぶだけが稽古を受けることになる。何だか楽しみで笑みが溢れた。
「先生、さよなら!」
 しのぶたちの後から元気良く道場を飛び出して来た女の子と、その後ろに冨岡と男の子が並んで女の子を窘め始める。何か一言男の子へ声を掛け、冨岡は一歩しのぶとカナエへ近づいた。
「えーっ、もう帰っちゃうの?」
 女の子の言葉に冨岡が振り向き、しのぶはカナエを見つめた。道場の生徒は同世代の女子がいないと言っていたから、女の子はもう少し話がしたいようだった。胡蝶姉妹はこの後用事もないわけだが、駅まで送ってくれるであろう冨岡はどうだろうか。
「義勇も錆兎も今日暇でしょ? せっかく来たんだからお話しようよ」
「私たちは是非ご一緒したいけれど」
「まあ確かに用事はないけど。義勇は?」
「俺も別に」
 全員の了承を得られたことで満足したのか、女の子はにこにこと嬉しそうだった。駅近くにファミリーレストランがあると言いながら歩き出す。
「へえ、しのぶちゃんたちお嬢様なんだねえ。あそこの女子校ってうちの学校でも有名だよ。何か男子がね、可愛い子が多いって言ってた」
 目的地に到着し、五人でテーブル席へと腰を落ち着け女の子と会話に花を咲かせた。
 クラスメートの顔を思い浮かべてみると、確かに校則で化粧は禁止であるものの、すっぴんだからこそ見た目に気を遣う子は多かった。
「でも大変だよね。あんまり可愛いと変な人に絡まれるし」
「真菰さんも多いでしょう? とても可愛いですから」
 ないない、と笑う真菰は嘘を吐いているようには見えず、本当に遭遇したことがないかのようだった。たとえ絡まれても強いから、と力こぶを作るように腕を曲げるが、隣りに居た錆兎が呆れたように窘める。
「奥さんの言うとおり、危ないことはするなよ」
「しないよ。錆兎が全部やっつけるとか言うし」
「当然だ。真菰にも義勇にも指一本触れさせん」
「錆兎がいなくても俺はどうにかなる」
 しのぶははてと首を傾げた。カナエは笑っていたが、しのぶと同様不思議そうにしている。何だか錆兎が二人を守っているような会話だ。
 しのぶたちの視線に気づいたのか、真菰が冨岡へ顔を向けた。何やら視線で会話をしている。
「変質者とかストーカーって男女関係なく被害あったりするじゃない。錆兎は心配性だからすぐこういうこと言うの」
 しのぶは先日の駅のホームでの会話を思い出した。彼らは冨岡の友人だから痴漢のことも知っているのだろう。他にもあったのかもしれない。
「ええ、知っています。男も女も関係なく恐ろしいものですよね」
「うん。私たちは三人でいるからもう大丈夫だけどね」
 もう。たった二文字があるだけで、一度は危ない目に遭ったことがあるだろうということが窺えた。他人事とは思えない。この先しのぶとカナエにも降りかかる可能性のあるものだ。
「ね、二人とも! 錆兎にばっかり良い格好させないよ」
「……ああ」
 真菰が二人へ笑いかけると、錆兎と冨岡は応えるように笑みを返した。
 控えめではあったが笑顔が見えた。しのぶは驚いて一瞬言葉を失った。
 笑うのか。数えるほどしか顔を合わせていないが、その間冨岡は無表情か顔を歪ませているか、とにかく良い感情を抱けるような表情を見せなかった。友人相手なら違うのだろう。しのぶとカナエ、知り合って間もない二人に向けられたものではなかったのだから。
 何だか胸に薄っすらと霧がかかったようにもやもやとして、しのぶは三人を眺めた。
 混雑時期をうまく避けられたのか、ファミリーレストランは数時間居座っても追い出されることはなく、予想以上に女子三人の会話が盛り上がってしまったしのぶたちは、陽も落ちかけた頃ようやく店を後にした。
 長く引き止めてごめん、と謝る真菰へ首を振り、仲良くなれそうで良かったと安心したことを伝える。
「冨岡さんもありがとうございました」
「いや」
「ここまでありがとうね。それじゃまた来週」
 改札前まで送ってくれた三人と挨拶をする。錆兎と真菰が手を振り、先に背中を見せて歩き始めた。続けて冨岡も踵を返そうとしたが、途中で止まりしのぶたちへ一言口にした。
「……これからよろしく頼む」
 少しだけ細められた目と、柔らかく弧を描いた口元が視界に映った瞬間、思い切り殴られたような衝撃音が耳の近くで聞こえた。しのぶは思わず手のひらで口元を覆い隠して俯いた。耳に聞こえた大きな音が心臓から発されたものだと理解した頃には、冨岡の姿は既に見えなくなっていた。
「あらあら……しのぶ大丈夫?」
「……平気よ。掠っただけだわ」
 掠ってはいるのね、とカナエが意味ありげに揚げ足を取るような指摘をしてきても、妙なことを口走ってしまったしのぶは文句を言うことが出来なかった。顔を上げると頬が赤いことがバレてしまう。もう気づかれているだろうことはわかっているが。
 どんな男の子から告白されても、しのぶは心を動かされることはなかった。良く知らない人が自分の見た目だけを好きだと言ってくる。そこから始まる何かはきっとあるのだろうけれど、どうしても受け入れられなかった。
 そう思っていたのに、気恥ずかしくて心臓が痛い。だって見た目に心臓を揺り動かされてしまった。いつもより一際優しく微笑むカナエの姿が視界の端に映った。

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