閑話 帰路

 委員会の仕事はやたらと時間がかかり、帰る頃には日が暮れていた。
 姉の所属する華道部もこの時間はすでに活動終了しており、覗いた部室は真っ暗になっていた。
 高等部に上がってからは帰宅部だったので、普段は明るいうちに帰ることができていた。こんな時間に電車に乗るのは初めてだったが、ホームに着いて止まっている電車を見てしのぶは足が竦んだ。
 夜のラッシュ帯に鉢合わせてしまったようだ。
 ホームに降りる時点で混んでいるとは思っていたが、車内の混雑具合を見てあの出来事を思い出し、まるで石になったかのように足が動かなくなった。
 姉と一緒に満員電車に乗ったこともあるのに、一人だと乗ろうなんて気も起きない。ドアが閉まり発車する電車を見送り、まだまだ減らない人の波に押されながらしのぶはベンチへと腰掛けた。
 しばらく待って空いてから乗ることを決め、震えを誤魔化すように両手を握りこんだ。
 情けない。たった一度遭遇した痴漢なんかに恐れを抱くなんて、誰かがいないと電車に乗れないなんて、どこに行くにも支障ばかりになってしまう。どうにかして乗れるようにならないといけないのに、今はとにかく落ち着くのに深呼吸をするばかりだった。
 ぼんやり人波を眺めていると、震えは収まってきた。空くまでにどのくらい時間がかかるのだろうか。帰宅ラッシュもこれほどとは、電車通学を舐めていた。溜息を吐いてスマートフォンを取り出し母に遅くなると連絡を入れようとした時、聞き知った声が聞こえてきた。
「……胡蝶?」
「っえ、冨岡さん?」
 無表情が少しばかり驚いているように見え、しのぶは名を呼んだ。
 しのぶの通う女子校の最寄り駅は冨岡の行動範囲だったらしく、制服姿で立っていた。電車を待つ行列へ視線を向け、もう一度しのぶへ視線を戻す。
「あれ、しのぶちゃん?」
 冨岡の後ろから真菰の顔が見え、錆兎の姿も視界に映る。道場で見慣れた三人の姿に思わず安心してしまった。
「どうした? 体調でも悪いのか」
「あ、いえその、」
 顔色でも悪く見えたのか、錆兎の問いかけにどう返そうか迷っていると、冨岡が手荷物をしのぶの座るベンチへと置いた。錆兎と真菰が見守るなか冨岡が口を開く。
「空くまで待つのか」
 的確に察してしまったらしい。情けないやら恥ずかしいやらでどうしていいかわからずに見上げていると、送ろうかと問いかけられた。慌てて首を振るが、疑問符を掲げていた二人は冨岡の様子に勘付いたようで、真菰がしのぶの前にしゃがんで笑みを向けた。
「あのね、この駅に美味しいシュークリーム売ってるって聞いて今日行ってきたんだ。すっごい美味しかったからお土産に買ってきたの。しのぶちゃんお腹空いてない? 一緒に食べようよ」
 食べ足りないの、と真菰が歯を見せて笑う。手提げ袋に入った箱を取り出し、四つほど入っている中身を見せた。冨岡が荷物を端に避けると真菰はしのぶの隣に座った。
「これさあ、皮が美味しいんだよ。クリームも二種類入ってるの」
 早くと急かす真菰に礼を告げながら、紙に包まれたシュークリームを取り出した。一口齧ると甘さが広がり、確かに美味しかった。しのぶが食べたのを見届けて真菰も齧りついた。
「太るぞ」
「うるさい! 今日は良いの、稽古してたらカロリーなんかすぐ消費しちゃうし」
 錆兎が笑みを向けながら指摘した言葉に真菰は怒る素振りを見せ、言い返しながらシュークリームを食べ続けている。
「二人も食べて太ったら?」
「もう要らん。一つ食べれば充分だ」
「蔦子姉さんの分だから食べない」
 話しながら荷物をベンチに置いたまま冨岡と錆兎はどこかへ向かった。後ろ姿を眺めてから真菰へと振り返り、二度目の礼を口にした。
「すみません、気を遣ってもらって」
「気にしないでよ、食欲あるなら良かった。今度甘い物食べ歩きしようよ」
「ええ、是非」
 しのぶの様子に深く聞くこともなく真菰はただ笑っている。実は校則違反に該当したりするのだが、厚意でもらったものを無下にしたくなく、今回ばかりは違反などと言われたとしても頷く気は更々なかった。
 戻ってきた二人は缶ジュースを手に持っており、真菰としのぶへ差し出した。
「ありがと、さすが気が利くねえ。私たちの欲しいものが勝手に出てきた!」
「あ、ありがとうございます……すみません、お金」
「返さなくて良い」
 見上げると冨岡は相変わらず表情を消していたが、どこか気遣う気配が感じられる。しのぶの眉がハの字になっていくのが自分でもわかった。
「あの、電車のこと気づいてらっしゃいますよね。何でわかったんですか。ただの体調不良かもしれなかったのに」
「……覚えがある。俺も電車に乗らないようにしていた時があった。少しの間だが」
 冨岡は初めて会った時からしのぶに同情してくれていた。同じような目に遭ったことのある冨岡だから気づいたのだろう。成程。出会ってからずっと、頭が上がらないほど気遣われてしまっていた。
「……今まで徒歩で通ってたので、電車通学が初めてなんです。初日に痴漢に遭って、その、怖くなって、情けない話ですけど。姉と一緒なら乗れたんですけどね、満員電車」
「情けなくないよ、私だって怖かったもん。実は一回だけ私もある。腕捻り上げて逃げちゃったけど」
 捕まえるような気分には到底なれず、真菰は恐怖でとにかくその場から脱したかったのだと言った。
「逃げ方が義勇と一緒だな」
「そりゃ先生の弟子だしね。とにかく怖いのは怖いで良いんだよ。もうちょっとしたら空きそうだね、送っていくよ」
「いや本当に、そこまでしてもらうわけには」
「残念ながら、私より義勇と錆兎が譲らないと思うよ」
 立ちながら缶ジュースを飲んでいる二人を見上げると、何か問題があるのかとでも言いたげな顔が並んでいた。
 知り合ってひと月ほどしか経っていないのに、そこまで世話になって良いものだろうか。特に冨岡など、しのぶは無理を言って道場を紹介してもらった自覚がある。人に迷惑をかけない生き方をしてきたつもりだったのに、この三人の前では全然見せられていない気がした。
「もう夜だし、一人で歩くのも危ないだろう」
「あ、じゃんけんで誰が行くか決める? 勝った人が送っていくの」
「真菰が勝ったら全員だな」
 突然拳を突き合わせてじゃんけんを始めようとした三人に、しのぶは慌てて声を上げた。
「いえ! でしたら三人ともお願いします、是非!」
 三者三様に笑みを見せたので、思惑通りの言動をしてしまったようだ。
 良いように動かされてしまいしのぶは少しばかり面白くないものの、素直に三人の厚意に甘えることにした。
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