愛妻弁当

「あっ! 冨岡さん来た!」
「おはようございます」
 結婚式の後冨岡が出勤したのは翌週、新婚旅行から戻ってからだった。挨拶をしながら女性事務員へ紙袋を渡してデスクに座り、周りのそわそわとした空気をものともせず普段通り準備を済ませている。恐らくあの渡した紙袋の中身が土産なのだろう。
 本日の朝礼当番から労いの言葉をかけられ、冨岡は一礼をして感謝を伝えるものの、それ以外は特に何か言うことはなかった。言わなきゃいけない決まりもない上、冨岡なので期待はしていなかったけれど。
 おかげで色々と聞きたそうにしている社員たちを近づけさせることもなく、冨岡は滞りなく業務を始めることができたようだった。
 昼休みを知らせるチャイムが鳴り、皆連れ立って食堂へと移動していくなか冨岡はしばらくデスクにいた。普段もチャイムと同時に食堂へ行くわけではないが、休み明けだからかまだデスクに向かって作業をしている。
「冨岡、昼は?」
「弁当がある」
 食堂へ行かずここで食事を取るつもりらしい。いつから同居しているのかは知らないが、挙式後最初の出勤日なのだし、美人の奥さんが弁当を作ってくれたのだろうと微笑ましくなった。
 村田は食堂の売店でパンを購入し、冨岡の座る隣の空席へと腰を下ろした。何も言いそうにないけれど、同期入社な上中学からの知り合いなのだから、少しくらい話を聞いても構わないのではないかと思いそわそわとタイミングを図っていた。
 ようやく仕事がひと段落したらしく、席を立った冨岡が弁当らしき包みを持って戻ってくる。
「さすがに忙しそうだなあ。長期休暇は休み明けがきついよな」
「仕事が貯まる一方だ」
 包みを解いて蓋を開ける。と同時に勢い良く閉められた。
 何事かと冨岡の横顔へ視線を向けると、困惑しているのが手に取るようにわかった。一体何があったというのか。
 弁当の蓋をもう一度開けるか逡巡しているような手つきで、冨岡は周りに目を向けながら恐る恐る蓋を開けた。どうやら近くに人がいないかを確認したらしい。
「わっ……」
 思わず声を漏らしてしまい、村田は頬を染めた。まさかこんな弁当を現実に持ってくる奴がいたとは驚きである。
 敷き詰められた白米の上にピンクの粉がかけられている。桜でんぶというやつだ。それがハート型を模して白米の上に鎮座している。おかずも卵焼きやにんじんなどがハートにかたどられ、彩りよく可愛らしく詰められており、正に愛妻弁当と呼べるものだろう。
 眉間に皺を寄せた冨岡の頬に朱が差している。照れているようだった。珍しいものを見た村田はこれまた驚いた。
「……こういうの作る人だったのか、冨岡の奥さんて」
「俺も知らなかった」
 頭を抱えた冨岡は、絞り出すような声で呟いた。これを食堂で広げていたら、間違いなく大騒ぎになっていただろう。怒涛のハート推しに他人のことながら照れてしまう。
「何か可愛い人だな。これから毎日これ?」
「今日だけだと思うが……」
 見た目は可愛い美人ではあるけれど、気が強いなんて聞いていたから何となくこういうことをしそうにないと思っていた。
 ちなみに冨岡が今回限りだと思っていた愛妻弁当は、忘れた頃にもう一度目にすることになる。食堂で大っぴらに蓋を開け、近くに座る社員からの冷やかしや羨望の視線を向けられ、冨岡は無表情の下に混乱を隠す羽目になるのだが、それはもう少し先の話だ。


  • 朝の風景

  •  形を整えて彩りよく詰めることのできた弁当に満足げに笑みを零し、しのぶはスマートフォンで出来たばかりの弁当の中身を撮影した。
     愛妻弁当に並々ならぬ憧れを持つ甘露寺に出来映えを見せるためだ。自分でもなかなかの完成度だと思う。
     しのぶが持っていく予定の弁当箱にも多少形の崩れたものが入っているが、義勇の弁当にかけた桜でんぶは使わなかった。自分で食べるものにわざわざハートをこれ以上増やす必要はない。何せ義勇が職場で開けることを目的としているのだから。
     中身を目にしてどんな顔をするのか少しは気になるけれど、大っぴらに食堂で開けて冷やかされてしまえばいい。蓋を閉め巾着袋に丁寧に仕舞い紐を結んだ。
    「お弁当、鞄に入れておきますから」
     礼を呟いてコーヒーを飲み干し、ダイニングから義勇が立ち上がるのが見えた。
     社食があるから弁当は必要ないと言われたものの、結婚したら一度はやってみたいことでもあった。実家の母も昔父に作っていたのを知っている。
     毎日作っても構わないが、大変だろうと言うのでしのぶの気が向いた時に弁当を作ることにしたのだ。勿論毎回愛妻弁当なんて作ってはいずれ慣れてきてしまうだろうから、忘れた頃に思い出させるようにするつもりである。少しくらい義勇で遊んでも良いだろう。
     鞄を持って玄関に向かう義勇の後を、しのぶも準備を済ませて追いかけ靴を履く。ドアを開けようと手を伸ばしたのを目にして問いかけた。
    「行ってきますのちゅーは?」
     ぴたりと動きの止まった義勇がしのぶへ困ったような顔を向けた。今から一緒に出るのに何故そんなことを、とでも言いたそうな目をしているのがわかった。
    「新婚ですよ私たち。今から離れて仕事する嫁に元気をくださいよ」
    「………」
     少し考え込んだ後、さほどゆっくりする時間もないので諦めたのか、しのぶの額へ唇を寄せた。
     初めて二人で乗った観覧車でも、結婚式の誓いのキスも額だったことを思い出しながら、ひょっとしてしのぶの額が好きなのだろうかと微笑ましい気分になった。
    「まあ良いです。義勇さんも屈んでください」
    「俺は良い。気が散る」
    「あらまあ。仕事前は駄目ですか」
     高校生だった頃にも言われたことのある言葉を呟いて、義勇はさっさとドアを開けた。拒否した理由はそれだけで察することができたので、しのぶの機嫌が下がることはなかった。鍵を閉め通路を歩いてエレベーターへと向かう。
     新居として借りたマンションから歩いて十数分ほどに最寄り駅がある。どちらも同じ方面の電車に乗るのだが、しのぶが降りた後三駅ほど先に義勇の勤務する会社があった。満員電車に慣れなければと意気込んでいた頃が懐かしい。もう乗れるようにはなっているが、結局一人で乗れなくても今のところ問題が起きていなかった。
    「今日は遅いかも知れませんよね、休み明けですし」
     しのぶも残業が入るかも知れない。頷いた義勇に帰宅時間の連絡をするように伝えながら電車に乗る。高校の頃と変わらずしのぶの前に立つ義勇を見上げた。
     満員電車に慣れないでやってくれ。義勇の幼馴染が言っていた言葉を思い出した。あの頃ほど怖いと感じることはなくなったけれど、今ではすっかり見慣れたこの光景がずっとあるのが嬉しい。この先も眺め続けられることを期待しながらしのぶは笑みを見せた。

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