蝶屋敷医院・五
⚠ぎゆみつで那田蜘蛛山任務に向かう

  • しのぶ十八歳

  • 「では義勇、二人のことを頼むね」
     怪我をしているのだし、蝶屋敷に一応は運ばれていった隊士と鬼の娘を見送りはしたが、預かってもらうかどうかを耀哉が問いかけると柱は己を除く全員が反対を示した。
     お前が引き入れたのだから責任を持って管理しろ。蝶屋敷に迷惑をかけるな。全員が言いたいことはそれだけだ。まあ、間違ってはいないだろう。義勇とて他の者に押し付けるつもりは更々ない。構う暇はないが、屋根の提供くらいならしてやれる。
     激怒した不死川と伊黒は義勇に殴りかからん勢いではあったが、禰豆子が不死川へ襲いかからなかったこと、耀哉の鬼舞辻無惨との関連を口にしたことで一応は落ち着きを取り戻していた。
    「同じ屋根の下で貴様の死体が増えていないと良いがね」
    「頸は斬ってから死ねよォ」
    「天邪鬼共め」
     宇髄の指摘に揃って眼光鋭く睨みつけた不死川と伊黒を眺めながら、心配されてんぞ、と義勇の肩にのしかかりながら宇髄は笑った。
    「伊黒さんたちの言うことも良くわかるんですけど、私もあの鬼の女の子は悪い子には見えなくて……」
     柱合会議が終わった後、蝶屋敷に運ばれた二人の監視に向かう義勇に声をかけた甘露寺は、自分も会いに行きたいと口にして連れ立って歩いていた。
     那田蜘蛛山では義勇が禰豆子を斬らなかったこと、隊士共々逃がしたことを窘めながら甘露寺は慌てていたが、柱合会議の様子を見て少し考えを改めてくれたようだった。
    「我慢できる子だもの、きっと大丈夫だと思う。他の人が信じるかどうかは私にもわからないけど」
    「結果を出せなければ柱は皆認めることはない」
     禰豆子が人を喰わない結果は不死川によって立証されたが、今後もそうかどうかなど義勇にもわからない。示し続けていくしかないのだ、他でもない禰豆子自身が。
     義勇はそのための機会を与えたに過ぎない。隊士に認められるようになるまで炭治郎と禰豆子への当たりは強くなるだろうが、恐らくそれは本人たちも理解しているだろう。
    「しのぶちゃんには切腹のことは言わないの?」
    「……言う必要があるか」
     困った顔で見つめてくる甘露寺に少しばかり狼狽えた義勇は、隣を見ないようにして歩き続けた。
     そんなことを言えばしのぶはもう口を利いてくれなくなりそうだ。鬼を憎むのはしのぶも同じ、むしろ甘露寺よりも強い怒りを抱いている。隊士ではないはずのしのぶが鬼を殺すための毒を開発するくらいなのだから。
     義勇の所業がばれれば怒り狂うのが容易に想像できる。怒られるくらいで済めば良いが、顔も見せてもらえなくなるのは嫌だ。
     炭治郎は優しい奴だ。殺すべき鬼相手であろうと慈しむ心を持っている。義勇にはできないことを炭治郎は示した。家族を殺され鬼にされてなお、鬼を人と同じだったものと言って情けをかける。
     くだらない、甘い考えを持ち続けるのも容易ではない。炭治郎があのまま鬼を救い続けることができるならば、鬼にとっても救いとなるのかもしれない。
    「こんにちは!」
    「こんにちは、恋柱様、水柱様」
     頭を下げて挨拶をした神崎に促され、隊士三人の部屋へ通された。義勇たちに驚いた炭治郎は慌てて寝台から降りようとしたが、甘露寺が制してすごすごと戻っていく。寝台の隣には箱、そして部屋には二人の隊士が寝ていた。
    「あの、冨岡さん。本当に何とお礼を言ったら良いか」
    「要らない。これが禰豆子か」
     箱を持ち上げると炭治郎は目を瞬かせ、義勇がそのまま出ていこうとすると慌てて引き止めた。
    「あ、あの! どこに行くんですか!?」
    「俺の屋敷だ」
    「何ででしょうか!」
    「お前たちの管理を仰せつかっている。お前は怪我が治るまで蝶屋敷で療養、その間禰豆子は俺が預かる」
    「ここにいたら駄目なの。ごめんね」
     喰わないとはいえ鬼の娘が蝶屋敷にいては、万が一の事態が起こってはならないという議決だ。そもそも柱はまだ禰豆子を信用しきっていないのだから、こうして昼間箱の中にいても周りは休まらないだろう。
    「で、でも、禰豆子は俺がいなくなったら寂しがるので」
    「怪我を治したら引き取りに来い」
    「ご、ごめんねえ」
     唖然とする炭治郎を置いて部屋を出ると、ちょうどしのぶが桶を持ってこちらへ向かって来ていた。会釈をするしのぶに甘露寺が朗らかに挨拶をしたが、今しのぶに構っている場合ではなかった。
    「冨岡さん! 待ってください、禰豆子は」
    「お前たちの信用は柱の誰からも得られていない。信用を得るまでの処遇はお前に選択権はない。得るために何をすべきかはわかるな」
    「そ、それは……わかります。でも、」
    「口答えをする暇があるならすべきことを先にしろ」
    「何もなければ返せるから、怪我が完治するまで療養してね」
     義勇が踵を返して玄関へ向かうと、甘露寺も恐縮しながらついてきた。ただ黙って眺めていたしのぶに目を向けると、不安や困惑に揺れる目が義勇を見つめていた。

    *

     屋敷にはしばらく来るな。手短に鴉から伝えられた言葉を受け取ったしのぶは困惑していた。
     何で。話がしたかったのに。保護したカナヲが勝手に最終選別に行って帰ってきたことで、隊士として与えられる任務は行かせるしかなく、これで本当に良いのかもわからないままだった。カナエは認めないが、隊士たちの稽古を見て覚えたらしい呼吸の確認もしてほしかった。拒絶されたような気分でしのぶは散々だとひとりごちた。少々泣きそうだ。理由も言わず来るななどと腹も立つ。
     恐らく竈門炭治郎とあの箱が原因ではあるのだろうが、一体何が起きているのだろう。隊士であるカナヲならばわかるだろうか。義勇と同じ任務についていたかどうかわからないが、カナヲが知らなくても甘露寺は訳知りのようだった。柱の話をしのぶにするとは思えないが、二人の時ならもしかしたら甘露寺なら教えてくれるかもしれない。それとも隊士に聞けばわかるだろうか。守秘義務のようなものがあれば無理だろうが、言えることであれば診察の時にでも聞けば教えてくれるかもしれない。
     あの調子では義勇の口から聞くのも難しいだろうし、眠りについた竈門炭治郎は重傷だった。あまり無理をさせるものではない。
    「しのぶ」
     カナエが手招きをして私室へと戻る。何かあったかと問いかけると、せっせと戸を閉め庭にも誰もいないことを確認してから小さな声で呟いた。
    「炭治郎くんが持ってた箱、隊士の方が中に気配がすると言ってたの。覚えのある気配が」
    「覚えのある気配?」
    「……鬼の気配だと言うのよ。水柱様と蜜璃ちゃんが持っていったのはそれを知ってたからじゃないかしら」
     竈門炭治郎と話している内容はしのぶには理解しきれなかった。隊内での立場のようなものの話をしていたから、まだ駆け出しなのだろう竈門炭治郎が何か粗相でもしてしまったのかと考えていた。その割には甘露寺が申し訳なさそうな顔をしていて、困惑しながら眺めていたのだが。
     ——怪我を治したら引き取りに来い。
     そう口にしていた義勇は箱を持って蝶屋敷を出ていった。引き取りに。あの箱は竈門炭治郎のもののようだし、そういうことだろう。箱の中身は、鬼の気配がすると言った隊士がいる。
    「待って、しのぶ!」
     勢い良く立ち上がったしのぶを慌てて引き止めたカナエに裾を掴まれ、しのぶは踵を返し損ねた。
     鬼の気配のする箱を義勇が屋敷に持ち帰った。炭治郎の怪我が治るまで置いておくつもりであることを察し、斬るつもりがないことも察した。一体何故、どういう理由があって。
    「本部の意向かもしれないし、柱の方には考えもあると思うの。私たちが出しゃばるわけにはいかないでしょう」
    「鬼を斬る以外に考えることって何よ」
     鬼狩りとしての責務を果たさない柱など柱ではないだろう。義勇が意味もなくそんなことをするはずがないのはわかっているが、どんな理由なら納得できるか自分でもわからなかった。

    *

    「顔貸してください」
     医療機関として鬼殺隊を援助してくれている蝶屋敷の住人。胡蝶しのぶは姉同様美人ではあったが、少々気が強いのが難点だった。並の隊士ではすぐに言い負かされて寝台に縛り付けられるし、眉を釣り上げて窘める姿も美人ではあるのだが、神崎アオイが似てきたなと逃避したくなるくらいには怖いのだという。まあそれは言うことを利かない隊士に対しての態度であり、大人しく療養していたり仲の良い相手ならば笑ったり楽しそうに過ごしている。要するに、機嫌が悪くなると素直に怒るだけだ。
     那田蜘蛛山事後処理隊の一人であった後藤は現在水柱の屋敷にいた。鬼とはいえ女の子なのだから色々と入り用だろうと甘露寺がはしゃぎ、必要かどうかはともかく、それによって諸々を買い揃えてきたところである。鬼相手にもこの朗らかさ、相変わらず恋柱は底が見えない。
     陽の当たらない屋敷の奥で箱を開けようとしていた時、先程の台詞は吹っかけられたのだ。
    「……来るなと伝えたはずだが」
    「了承してませんから」
     水柱相手に喧嘩腰。柱に食ってかかりそうな様子を目の当たりにした後藤は、もう間違いなく蝶屋敷の次女が怖いと思い知った。
     ずかずかと縁側から上がり込むしのぶの様子に甘露寺も少したじろいでいた。箱のそばに置いていた荷物に目を向けてから箱へと視線を送る。そして最後は冨岡に顔を向けた。
    「用が終わるまでお待ちします。お茶でも淹れましょうか?」
    「あ、ええと、私たちがやっておくから、冨岡さんとしのぶちゃんはお話してきたらどうかしら」
     気を利かせたのか怖かったのかはわからないが、甘露寺は冨岡の腕を引っ張り別室へ移動させようとしていた。しのぶも手招きして廊下へ足を置いたことを確認すると、ごゆっくりと言って障子を閉めた。
    「ふう。さて、早く終わらせましょう!」
    「あ、はい……まあ殆ど準備することもないんですけどね……」
    「ふふふ、二人が戻るまでのんびりしてましょ! 音沙汰ないけど寝てるのかしら?」
     やはり何か意図を持って二人を追い出したらしい甘露寺に、あの今にも怒り狂いそうなしのぶにあしらうような対応をしていたことを素直に尊敬した。やはり可愛くても柱、修羅場もお手の物なのかもしれない。
     痴話喧嘩にしては不穏過ぎたが、噂通り仲が良いらしいことは後藤にもわかった。わざわざ屋敷に来るくらいだ、もしかしたらそういう仲なのかもしれない。

    *

    「あの箱、本当に鬼が入ってるんですね」
     中身を見られたわけではないが、置かれていた荷物は少女に渡すようなものばかりだった。少なくとも人型の生き物が入っているのだろうと思って口にすると、これみよがしに溜息が聞こえてきた。
    「何故義勇さんが面倒を見るんです?」
    「……屋根を貸すだけだ。竈門炭治郎の怪我が治れば返す」
    「答えになってませんよ。……鬼ですよ、義勇さんだって喰われてしまう」
     鬼と同じ屋根の下で生活するなど有り得ない。鬼を連れた隊士も大概おかしいが、義勇の所業もおかしかった。甘露寺まで楽しそうにしているのだ。意味がわからない。
     やはり話してもらえないのだろうか。窺うように義勇の顔を覗き込むと、少しばかり困ったように眉尻を下げた。
    「……不死川の稀血にも顔を背けた。あれは人を喰わない」
    「そ、……そんなの、たまたまです。空腹だったら襲われます。鬼に例外なんてないでしょう」
    「二年、眠り続けていたと聞いている。起きてからは兄を助けるために行動していたと」
     箱の中身は竈門炭治郎の妹。しのぶは義勇の言葉に茫然とした。
     人を喰わない鬼を鬼殺隊に引き入れた。兄を守り十二鬼月とも殺し合っていた。人の味方をする鬼が箱の中にいるという。
     しのぶと義勇の家族を殺し、錆兎を殺した鬼の中に、人を守り助ける鬼がいた。何なのだそれは、意味がわからない。そんなのがいるなら、どうして今頃になって現れたのか。
    「……義勇さんが見つけたんですか?」
    「……そうだ」
    「鬼を、あなたが? 殺さずに生かした? 家族を、錆兎さんを殺した鬼を」
    「そうだ。俺が手引きをした」
     泣きたいのか怒りたいのか、しのぶは何だかわからなくなっていた。しのぶと同様鬼を憎む義勇が見逃したことが信じられなかった。だが実際に箱は屋敷にある。中身を見てはいないが、いることは間違いない。炭治郎や甘露寺、カナエが聞いたという隊士の様子がそれを物語っていた。
    「信じられるんですか」
    「少なくとも俺はそう信じる」
     唇を噛み締めたしのぶは義勇の肩に頭を預けた。言いたいことは色々あっても、言葉にするのが難しかった。鬼を信じる義勇が信じられないもののようにも感じたが、義勇が信じるならきっとあの箱は大丈夫なのだろうとも思いはする。
    「そうですか。でも、信じているなら蝶屋敷に置けば良かったのでは?」
    「柱合会議の結果だ。柱が認めるまでは監視の必要がある。あれが人を襲ったら頸を斬る」
     そのために手引きをした義勇が監視をする。実際に見ていないしのぶには問答無用で斬るべきだとも思うが、鬼殺隊の意向ならば何も言えない。
     義勇と甘露寺以外の柱は認めてはいないのだろう。当然だ。甘露寺の態度が寛容すぎるくらいである。
    「義勇さんが喰われるのは嫌です」
    「死ぬ前に斬る」
    「襲われるのが嫌だと言ってるんです」
     しのぶには生きろと言っておいて、自分が綱渡りのようなことをするのは良いと思っているのか。義勇にとっては信じているのだから構わないのかもしれないが。
    「……大丈夫だ。それを証明するのは禰豆子だが」
     袖を掴んだしのぶの手に触れながら、言い聞かせるように義勇は大丈夫だと言う。
     カナエは隊士が死ぬのを嘆くあまりに鬼と仲良くできたら良いと口にしたことがあるが、義勇はそれをしようとしている。鬼狩りである義勇が身をもって証明しようとしているのだ。
    「……禰豆子さんというんですね。顔を見ても?」
    「見るのか」
    「あなたが見逃した鬼を確認したいです」
    「……近寄りたくないのでは」
    「普通の鬼ならね。義勇さんが信じているなら、私も会ってみたいです」
     義勇が信じた鬼をしのぶも信じたい。まだ疑いはあるものの、そう思えたのは確かな進歩のようにも思えた。
     しのぶの顔を窺いながらも頷いた義勇は、触れていた手を引いてしのぶを立ち上がらせ、甘露寺たちの待つ部屋へと向かうために足を動かし、しのぶもその背中を追った。


     炎柱が殉職した報せは蝶屋敷にも知らされ、しのぶは眉根を寄せて俯いた。
     あの煉獄が、十二鬼月と相対し命を落とした。そこには完治し禰豆子を迎えに行ったはずの炭治郎たちもいたという。
     煉獄は命と引き換えに柱として彼らを認め、禰豆子は蝶屋敷への滞在を許可された。寝床は箱の中、炭治郎の病室のみという制限はつくものの、彼女は無事鬼殺隊へ特別入隊という形になった。
     義勇の屋敷で顔だけ見た少女。竹を噛んで時折唸るが穏やかで愛らしい顔をして、鬼であることが不思議なくらい幼い少女だった。
     煉獄がこの世を去ってしまったことで、義勇も落ち込んでいるだろう。だが悪いことばかりではない。義勇が希望を見出した炭治郎と禰豆子は、間違いなく隊士たちに受け入れられてきている。
     炭治郎が療養中、禰豆子は義勇の屋敷におり大人しく過ごしていたと聞いている。義勇が襲われることもなく、様子を見に行った隠は意外と穏やかな空気だったと二人を評価した。炭治郎がいないことで寂しそうではあったが、その分義勇についてまわっていたのだそうだ。意外と歳下に好かれているらしい。煉獄が認めたことで禰豆子は療養中も炭治郎のそばにいることができるようになり、死を悲しみながらも彼らは前を向いている。
    「女の隊士を見繕ってほしいんだが」
     炭治郎たちがもうすぐ退院するという頃、蝶屋敷に現れた宇髄はそうしのぶたちに打診した。
     曰く、かつてしのぶが勘違いで腹を立てた遊郭への潜入を奥方にさせており、連絡が取れなくなったので調査に行くのだという。そのため店側に忍び込んで様子を探りたいのだそうだ。
     蝶屋敷にはカナヲがいるが、遊女の真似事を彼女ができるとはしのぶは世辞でも言えなかった。それにカナヲは隊士である前に蝶屋敷の住人なのだ。任務に協力しないわけにはいかないが、率先して送り出すのも辛いものがある。それはどの隊士にも当てはまるが。
    「お前らが嫌がる理由もわかるけどな、かといって男じゃすぐばれるだろ。成人してる伊黒や冨岡なんか連れてってもなあ。あいつらも任務があるし」
     ちょっと見てみたくはあるが、確かに柱の中では小柄な伊黒ですらしっかり筋肉はついている。上背のある義勇では着飾ってもすぐばれるだろう。あと普通に話したりするのも難しそうだ。よしんば上手く客が取れても叩きのめしてしまいそうでもある。
    「只今戻りましたー」
     玄関先から聞こえた声に顔を上げると、炭治郎と善逸、伊之助が揃って蝶屋敷へと戻ってきていた。振り向いた宇髄はしばし彼らを眺め、手のひらを打って任務を言い渡した。

    *

     鬼の出没がぴたりと止んだ頃、柱稽古というものを隊内で行うことになったらしい。
     一般隊士は柱の元を巡り力をつけていく修業なのだそうだが、鬼と戦っていた時と同じように治療に来る者が多かった。相当厳しいらしい。
     義勇も例に漏れず稽古をつけているらしいのだが、如何せん悲鳴嶼の後なので訪れる隊士は中々いないようで、待っている間柱同士で手合わせをしているのだという。
     しのぶが義勇の屋敷を覗いた時は、手合わせを終えた時透が帰るところだった。
    「今日の稽古は終わりですか?」
    「ああ、飛び込みで来なければだが」
     不死川は良く鴉も飛ばさず現れるらしい。竈門兄妹のことがあってからぎすぎすしていたように見えたが、最近は比較的ましなのだそうだ。
     柱相手の手合わせに忙しくしていた義勇と会うのはしばらくぶりだ。手荷物を置いて茶を淹れて戻ってくると、義勇の目が風呂敷の上に置かれた花に向かっていた。
    「摘んできたのか?」
    「いえ、実は街でいただきました」
     何やらしのぶが美しくて思わず声をかけたのだとか。突然見知らぬ人にそんなことを言われてもしのぶは眉根を寄せて去るのだが、花だけでも渡したいとしつこかったので断りきれず貰ってしまった。どうしようかと悩みつつも花に罪はないので、そのまま持ってきてしまったのだ。
    「………、そうか」
     少しばかり剣呑とした義勇が不機嫌そうな表情をした。あら、としのぶは目を瞬いた。
     もしやこれは、所謂悋気というものではないのか。
     しのぶを大事にして生きていてほしいと言ってくれる義勇は、妙齢となったしのぶに時折手を触れるし、頻度は数えるほどもないが感極まれば抱き締めもする。だがその好意はどの情から来ているものなのかしのぶにはわからなかった。自分と同じ想いではないかとも思うし、相手が義勇であるせいで子供の頃の延長にも思えるのだ。
     鬼狩りである義勇は恋にうつつを抜かすようなことはしないのだろうし、だからしのぶも言うつもりはない。ただこうして二人でいられる時間が作れて、時折触れてくれることを望んでいるだけで良い。生きていてくれるならしのぶだってそれで良いのだ。
     とはいえ、こんなふうに素振りを見せられると少々期待もしてしまう。少し試してしまおうかとしのぶは笑みを向けた。
    「いつもはあしらってくるんですけど、今日はつい花を持たされて困りました。私、意外と声をかけられることが多いんです」
    「別に、意外じゃないだろう」
     やきもちが目に見えたら嬉しいのに、なんて考えながら話していたせいで、しのぶは義勇の言葉に反応するのが一瞬遅れた。
     意外じゃない。しのぶが声をかけられるのはおかしいことではないと義勇は思っているらしい。それはつまり。
    「綺麗になったから当然だ」
     あまりにも直接的な言葉を微笑んで口にするものだから、まるでそういう仲のような錯覚を受けてしのぶは頬を染めた。俯きかけたところに追撃の如く義勇が口にしたのはしのぶの機嫌を損ねるものだったが。
     良い縁談が来るだろう。何よそれ。しのぶが綺麗になったというくせに、誰のおかげでそうなっているかを全く考えていないようだ。
    「蝶屋敷にいる私に良くそんなことを言いますね」
    「婿養子を探せ。お前ならいくらでも来る」
    「お見合いなんて嫌です」
     気を悪くしたことを気づかせるようにふいと顔を背けた。義勇はしのぶが綺麗であることを当然と思っていることは本当らしく、引く手数多だろうと言う。見知らぬ人からの求愛などしのぶは喜ぶはずがないのに、義勇はそれを望んでいるようだった。
     さっきの悋気のようなものはならば何だったのかと問い詰めたくなったが、それを聞いてもしのぶの望む答えは返ってきそうにはない。何せ相手は義勇である。
    「結婚しないつもりか」
     見合い以外にもあるだろうに、例えば蝶屋敷に訪れる顔見知りの隊士が相手だとか。目の前の義勇が正にその筆頭だ。隊士は鬼狩りを第一に考えているのだから、そこに考えが及ばないのもまあわからないでもないが。
    「そうですね、興味ないですから」
     義勇以外には。言葉にしない部分をしのぶは心中でむすりと呟いた。
     見合いに興味がないのは事実だし、義勇がこれではしのぶとどうにかなることもないだろう。結婚などできようもない。
    「そうか。晴れ姿はさぞ綺麗だろうと思ったが」
    「何か手慣れてませんか。どこぞの娘さんにも言ってそうなんですけど、口下手のくせに」
    「しのぶ以外に言ったことはない」
     本当に何なのよ。どういう意味を含ませて言っているのかわからなかった。しのぶを特別に想っているのなら見合いの話などしないはずだし、してほしくない。それでも伝えられた言葉は義勇の本心だと思うと、しのぶの頬が熱くなっていく。不満はあったので、それはどうもと可愛げなく口にした。しのぶの反応にまた薄っすらと笑みを見せた義勇は、やがて静かに庭を眺めた。

    *

     幸せになってほしい。ずっと鬼殺隊の援助をし続け、隊士たちの治療や鬼を殺すための毒を精製してきたしのぶたちの貢献度は計り知れない。危険な目に遭わせたことも、意図せず遭ってしまうこともありはしたが、今こうして喜怒哀楽を振り撒いて話している姿を、義勇はずっと見ていたいと思っていた。
     義勇の言動で時折機嫌を浮き沈みさせ、頬を染めたり照れたりとする姿がたまらなく愛おしかった。己の無事を祈り生きていてほしいと言うしのぶに、義勇が死ねばきっと悲しんでくれるだろうと思えるくらいには、恐らく義勇は想われていることを自覚できていた。それが一等幸せであることも理解していた。しのぶとずっと一緒にいられるのならこれ以上のものはないだろうと。
     義勇は鬼狩りだ。命を懸けて鬼を斬る鬼殺隊の隊士である。姉が死に、錆兎が死に、しのぶまでいなくならないでほしいと願ってただ鬼を狩っていた。害を成す鬼を只管斬り続けていた。
    「義勇さんだって結婚する気ないくせに」
     見合いの話で機嫌を悪くしたしのぶは、鬼狩りである義勇のことに話題を変えた。
     そんなものを考える暇があるなら鬼を斬る。安心できる世が来るまで、死ぬまで義勇は刀を振るう。そう決めているのだから結婚などする気はなかった。
     一緒にいてほしいと思うことが相手の条件ならば、義勇はすでに生涯の相手を見つけている。だが守りたいと思う者の幸せに義勇が入り込む余地はない。
     己のそばにいて誰かが幸せになるとは思わない。そばにいたいと思っているのは、しのぶがこうして見合いを嫌がりまだ独り身でいるからだった。
     しのぶが誰かと結婚すれば義勇はもう屋敷に来させるつもりはなかった。不義を働くつもりがなくても、伴侶は良く思わないだろう。しのぶが独り身でいるからそれに甘え、こうして会うことを許してくれている間だけは、義勇はしのぶのそばにいる。
     昔とは違い大人になった。誰もが振り返るくらい綺麗になった。自制していても触れたいと感じ、つい触れてしまうくらいには、義勇はしのぶが愛おしくて仕方なかった。
     叶うことならば。
     何のしがらみもなく鬼のいない世に生まれることがあるならば、しのぶと死ぬまで一緒にいたいとさえ思っていた。
     いずれ痣者となる近い未来を、この時義勇は知らなかったが。
     短い余命が見えた後、義勇はしのぶの想いを伝えられしばらく逃げ惑うことになるとは思いもしていなかった。
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