囲碁部と出会った最後の一年

 図書室で課題をやっていたものの身が入らず、帰ろうとした時だった。隣のテーブルに雑誌が置いてあった。奈瀬自身良く目にする雑誌ではあるが、高校の図書室にあることに驚いてそれを手にする。
 週刊碁。奈瀬もまだ見ていない今週発売のものだった。熱心な囲碁ファンか、教師の中に碁を打つ人がいるのだろうか。和谷と進藤は今週手合があるようだ。越智や伊角の名前は見当たらない。
 進藤は今週倉田七段との手合。どんどん上へ行ってしまうかつての院生仲間だった彼らの活躍は、奈瀬にとって嬉しいような悔しいような、複雑な感情をもたらした。
「あ、それ」
 こちらを見ながら奈瀬の手にある雑誌を指して、男子生徒が近寄ってくる。ここに置いてあった? と聞かれれば、奈瀬は彼の私物なのだろうと気づき週刊碁を差し出した。
「ごめんなさい、あなたの?」
「そう。忘れていってしまって。碁、知ってるの?」
 照れたように笑った彼は、差し出した週刊碁を受け取り奈瀬へ問いかけてくる。妥当な質問だった。
「うん、まあ」
「そうなんだ! 僕、囲碁部なんだけど、良ければ覗いていかない? 人数もそれほど多くはないんだけど」
「あ、ごめんなさい、私部活は」
「ああそうか、ごめん。碁に興味持つ人少ないから、つい嬉しくて」
 男子生徒は同じ三年で、筒井というらしい。囲碁部は人数が少なく部室を確保できないから、将棋部室の一角を借りて活動している。通う学校に将棋部も囲碁部もあったことを知らなかった奈瀬には新鮮だった。
「やっぱりちょっとだけ、覗いてもいいかしら」
「えっ、うん! 大歓迎だよ!」
 興味が湧いたのだ。楽しそうに笑う筒井を見ていると、囲碁部が好きなのだろう。院生研修とも違うであろう存在は、奈瀬は触れてこなかったものだ。
「おはよう」
「おう、」
 扉を開けて目に入ったのは並べられた将棋の盤だった。手前が将棋部。奥にひっそりと碁盤が三面置いてある。あの一角が囲碁部なのだろう。
 こちらを見ていたのは少しガラの悪そうな生徒だった。王将と書いてある扇子を持ちながら、ぽかんと口を開けて固まっている。かと思えば、ずんずんとこちらへ向かってきて、筒井を捕まえて廊下へと飛び出した。
「おい、誰だ」
「痛いだろ! 奈瀬さんだよ、三年の」
「ナンパでもしやがったのか」
「人聞きの悪い! 囲碁部を見学に来てくれたんだよ」
「囲碁部にい? なんであんな美人が」
 丸聞こえである。容姿を褒められることは満更でもないのだが、如何せん目立ってしまっている。部室内にいた生徒数人からの視線を感じ、奈瀬はいたたまれなくなってしまった。
「ごめんね、奈瀬さん。奥が囲碁部なんだ」
 将棋部らしい男子生徒の腕から抜け出し、曲がってしまったネクタイを直しながら筒井が案内する。奈瀬はその後を追うように奥へと足を踏み入れた。
「まだ誰も来てないね。一応部員は五人いるんだけど、今日は皆来ないのかな」
 週刊碁のバックナンバーが揃っている。部員の誰かが買い揃えているのだろう。詰碁集と初心者向けの囲碁の本。その棚の側面には北斗杯のポスターと、今年の若獅子戦の結果が貼ってあった。
「若獅子戦の結果まで……」
「奈瀬さん、若獅子戦知ってるの? 詳しいんだね」
「そうね。私も出場したから」
 つい漏らしてしまった事実に筒井は目を丸くした。あ、と思わず口元を右手で隠しながら筒井の反応を窺う。
「え? ごめん、奈瀬さんてプロだったの? おかしいな、結構チェックしてるんだけど」
「ええと、プロじゃないの。院生なのよ」
「ええっ」
 掛けている眼鏡がずり落ちるくらい衝撃だったらしい。それともサイズがもともと合っていないのかもしれない。
「ふうん。じゃあ進藤のことも知ってるんじゃねえか」
「進藤? 確かに院生の時一緒だったけど……進藤のファンとか?」
 ぽかんと口を開けていた筒井が我に返り、将棋部であろう男子生徒がからからと笑う。
「ファンかあ……。確かにファンになるのかも。これだけ集めてたら」
 今年の若獅子戦の結果は、進藤が塔矢を下し初優勝を決めたものだった。北斗杯の後、彼はまた強くなっていた。公式手合で一度も勝っていないと聞いていたが、この結果で進藤は塔矢と五分の勝負ができるほどに成長したということを見せつけてくれた。
「僕ら、進藤くんと同じ中学でね。囲碁部で一緒に大会に出たんだ」
「へえ?」
「俺は助っ人で一度出ただけだがな」
「加賀は将棋部なんだけど、碁も強くてね。人数が足りなくて出てもらったことがあるんだ。進藤くんが頑張ってるの見てると僕も嬉しくて、つい貼っちゃったんだよね」
 照れたように笑う筒井に、加賀も口角を上げた。奈瀬は二人を眺めて笑みを見せ、週刊碁へ視線を落とした。
「北斗杯も惜しかったけど、部で盛り上がっちゃって。最近は皆進藤くんの手合の結果とか気にするんだよ。ははは、こうして確認するとファンだね」
「進藤も嬉しいんじゃないかな。こうやって応援してくれてる人がいるんだもの」
「塔矢に勝ったのはまあまあだな」
「お前はまたそんなこと」
 二人のやり取りを眺めて部室を見渡す。将棋部の部室を間借りしているとはいえ、囲碁部の一角はしっかりと囲碁の存在が感じられた。囲碁部の棚には週刊碁の他にも、今までの戦績の記録やこれからの予定などがしっかりと詰まっている。
「奈瀬さん、時間があれば一局打ってくれないかな」
 筒井の申し出に奈瀬はしばし考え、予定もとくになかったので了承した。嬉しそうに礼を言われるが、有難がられるようなものでもないと奈瀬は思う。
「いつまで経ってもプロになれないし、成績もぱっとしないのよ」
「そんな。院生になれるくらい強いってだけで、僕にとっては雲の上の存在だよ」
 アマの大会で頑張っている者たちからすればそうなのかもしれない。いつまでも院生から抜け出せない奈瀬には、お世辞のようにも聞こえていた。
「私が黒ね。お願いします」
 そうして静かに始まった対局は、ゆっくりと時間をかけて打たれていった。

「ありがとうございました。こんなに強い人と打ったの初めてだよ。奈瀬さんありがとう」
「こちらこそ。久しぶりに気負わないで打てた」
 盤上の碁石を片付けながら奈瀬は笑みを浮かべていた。碁を打つことは楽しいけれど、その気持ちをずっと忘れていたことを思い出した。
 筒井は奈瀬よりもずっと棋力に差があったけれど、楽しそうに一手一手を返してくれた。
 そうだ、碁は楽しい。だからプロになりたかったのだ。碁漬けの世界に奈瀬は行きたかった。彼との一局は、碁盤を前にして最初に感じた素直な気持ちを思い出させてくれた。
「進藤に会ったら伝えておこうか。筒井くん、知ってるでしょって」
「え、でも僕のこと覚えてるかなあ……」
「覚えてるでしょ。いくら進藤だってそんなすぐに忘れないわよたぶん。同じ囲碁部だったんなら」
 そりゃあ、一度会ったきりの人ならば、覚えていなくても無理はないけれど。聞けば進藤の院生試験のために一役買ったというではないか。恩義は感じても忘れることはないだろう。いくら進藤といえど。
「とはいえ、院生とプロじゃほとんど会うこともないけど。若獅子戦で会ったきりね。手合以外で棋院に来るような用事があれば、会えるかもしれないんだけどなあ」
「そうなんだ。やっぱり時間が違うとなかなか会わないよね」
 残念そうな声音で言った筒井に奈瀬も申し訳ないという感情が生まれる。せっかくこんな縁があったのだから、是非伝えたいと思うのに。さてどうしようか、と考えた結果、あ、と声を上げた。
「奈瀬さん?」
「あ、ううん。なんでもない」
 不思議そうに見つめる筒井に、奈瀬は誤魔化すように笑いかけた。


「奈瀬、来るのか? 前は渋ってたじゃん」
「私もいろいろあるのよ。……今年で院生最後だし、できるだけやってみようと思って」
 以前レベルを下げてしまうからという理由で断った和谷の研究会に、奈瀬は意を決して参加すると伝えた。最近はリーグ戦もやっているらしく、若手のなかでも強いといわれている者たちが多く参加している。名を聞いた時は驚いて尻込みしてしまいそうになったが、それも今年最後に賭けるため、和谷へ連絡した。
 ここまで院生でもたついてしまったのだから、ずっと同じでは駄目なのだ。やれるだけやって駄目なら、今年は女流枠を目指す。それでも駄目な時は、その時に考える。奈瀬は気持ちを新たに気合を入れた。
 そして、筒井のことだ。彼のことを進藤に話そう。お世話になった人を忘れるなんてことはないはずだ。言い切れないのは、彼らの繋がりがどんなものだったか知らないから。進藤のことは奈瀬はほとんど知らない。
 ヘボだったと加賀は言った。碁を知ってたった二年でプロになった進藤の中身を知るチャンスがあるかもしれない。進藤のように才能の塊ではないけれど、少しでも彼らに近づくことができるかもしれないなら、そのチャンスを手にしたい。プロの世界へ行きたい。奈瀬の心は今まで以上に前を向いていた。
「いいぜ。毎週やってるから、学校終わったら来いよ。場所がわからないなら小宮に聞いてくれ」
「わかった。ありがとね、和谷」
 私、頑張るよ。誰に言うでもないその言葉は、心に深く沈んでいった。


 そうして始まった奈瀬の追い込みは、プロ試験本戦でも続いていた。自分の師匠の研究会へ今までどおり通いつつ、週に二回は和谷の研究会へと顔を出す。高校の授業なんて聞いていられない。周りが進学や就職へ気合を入れていくなか、奈瀬もまた同じように目標を掲げて力をつけられるようにできることをしていた。
「六戦して五勝一敗? 幸先いいじゃん」
「始まったばかりだけど、今までよりいいペースで勝ち進んでるの」
 院生だった和谷や伊角たちのいる前で、奈瀬は頭を下げて教えを請うた。プロ試験に臨むのはこれが最後だと告げた奈瀬に、意外にも反応を見せたのは進藤だった。
「奈瀬が決めたリミットに文句をつけるつもりはないけど。もしものことは考えるなよ。合格することだけ考えとけよ」
 奈瀬の勢いに圧倒されたかのように黙りこんでいた周囲は、進藤の一言に頷くように激励を飛ばしてくれた。その後進藤と越智と一局ずつ打って、次回は俺と打とうな、と門脇が声をかけてくれた。
 本気の思いが伝わったのか、いつも盤面を挟んで言い合う皆の姿を見ているだけだった奈瀬は、一歩離れた場所にある輪の中に入り込んだような気分だった。
 プロとはいえまだまだ若手として実績も少ない彼らは、院生の自分などよりも当人自身の勉強に時間を割きたいだろうに、彼らは誰一人として嫌そうな顔を見せなかった。
 彼らの優しさに、奈瀬はこの先ずっと感謝し続けるだろう。

 あれから時折覗くようになった囲碁部では、筒井は相変わらず部員たちと楽しそうに碁を打っている。プロ試験が始まる少し前から遠ざかっているけれど、ぎりぎりの崖っぷちにいるような気分を、時折和らげてもらえているような気がするのだ。
「碁盤の上で神さまになるんだって」
 筒井は進藤のいた囲碁部の昔話をよくしてくれた。僕にも負けていたんだと悪戯を仕掛けた時のような表情で笑いながら、少ない思い出を語る。どれほどの速さで強くなっていったのかを垣間見れるその昔話は、奈瀬にとって思ったよりも楽しみにしているものだった。
「進藤くんが言ったんだよ。碁盤には九つの星があるだろ? この碁盤は宇宙で、星は石。石を置いて宇宙を作っているんだって」
 ――俺は神さまになるんだよ。
「なんだか壮大でその時はびっくりしちゃったけど、進藤くんなら本当になるのかもしれないな――なんて」
 頭を掻いて照れた顔を隠すように週刊碁を手に取った筒井を眺めながら、奈瀬は進藤の顔を脳裏に浮かべていた。


 プロ試験も終盤に近づき、奈瀬の成績は微妙なところにいた。六敗。今まで受けた時よりも一番良い戦績ではあるが、順位でいえば五位。これ以上は負けられない。
 奈瀬自身の頑張りに実を結びたい。プロ試験への意気込みを買ってくれた、一足先にプロになった彼らの気持ちに応えたい。それにまだ、筒井のことを進藤に話していないのだ。己の勝手ではあるが、迫っていたプロ試験に集中するために。まずは合格を決めて、晴れやかな気持ちで伝えたい。棋士を目指すのは今年で最後と決めている。今期のプロ試験に落ちたら、今年は意を決して女流棋士の採用試験に挑もうとは考えているが、今まで夏に挑み続けていた分、どうしてもここで合格を決めたいという気持ちが強い。それに進藤も言っていた。次を考えていたら勝てるはずがないのだ。
 絶対に負けたくないという思いが奈瀬の心を包み込んでいる。大丈夫、私は負けない。何度も胸で反芻し、奈瀬は対局場へと足を踏み入れた。
 碁盤を挟んで向かい合う相手は、同じ院生でも仲の良い者だ。ここに仲間はいても、味方は一人もいない。百も承知だ。
 誰が相手でも負けられないのだ。このままプロの世界へ行ってやる。
 交換した碁笥を膝の傍に置き、目を瞑り深呼吸をする。堅い声音で始まりの言葉を紡いだ。


 プロ試験もあと二戦を残すのみとなった。今日の一戦、たった一手の甘い手が付け入る隙を与えてしまった。中盤までは優勢だった。思いがけないところへ打たれた手は、プロへの道を閉ざすかのように奈瀬を負けへと導いていった。
「……負けました」
 頭を下げて唇を噛む。終わってしまったのだ、この夏も。
 誰もいない廊下の行き止まりまで歩いて行き、奈瀬は堪えきれず嗚咽を漏らした。手が届きそうだったプロへの扉は、どこまでも奈瀬を阻んでいた。

 足取りが重い。家に帰る前に親に連絡し合否を伝えはしたが、奈瀬自身の気持ちに整理がついていなかった。意気込みも強かったために、落胆は隠し切れない。
 同じ道を進みたかった。院生仲間だった伊角や和谷、進藤たちと同じ門からプロになりたかった。女流棋士を馬鹿にしているわけではないが、冬にある試験までにこの気持ちが前に向けられるとは思えない。今はただ、何も考えたくなかった。
「奈瀬?」
 掛けられたのは最近良く聞く機会のある声だった。振り向けば進藤が立っている。今は会いたくない者のうちの一人だった。
「進藤……」
 一度止まったはずの涙腺が再び緩み始めるのがわかり、誤魔化すように奈瀬は笑った。
「駄目だったよ。負けちゃった。今年は行けると思ったんだけどなあ……。ごめんね、進藤や和谷たちにも顔向けできないよ」
「……女流試験があるって言ってたじゃん。それは?」
「それは冬だよ。まだ先」
「なら、それまでに力つければいいだろ。まだチャンスがあるじゃんか」
「私は、夏のプロ試験で受かりたかったのよ」
 語気が荒くなってしまうのは、試験に落ちたばかりだからだ。せめて明日に会っていれば、もう少し心に余裕ができていたかもしれないのに。
「私はあんたたちと同じ道を歩きたかったの! ずっと夏のプロ試験を受け続けてきたの。今年こそって言って、院生の最後の年までやってきたの。今回なんか和谷の研究会にも参加して、プロの手合があるなか無理言って対局してもらって……そこまでしてもらったのに、結局駄目だった。運良くプロになれたとして、ついていけるかなんて」
 じわりと視界が歪み始める。震え始める声も、我慢ができなくなっていた。
「受けないのか。チャンスがあるのに」
「進藤にはわかんないわよ……」
 院生に入ってきたと思えば一組に上がってきて、一組の上位陣を押しのけてプロになった。プロになったと思えば、十代の棋士にはほぼ敵なし。塔矢と五分の勝負をするまでに成長しているような進藤。手合のたびに強くなっているような彼に、この気持ちがわかるはずがないのだ。
 今日だけは誰にも会いたくなかった。彼にもきっと、奈瀬とは違う悩みや苦しみがあることくらい、心の隅ではわかってはいるけれど。歪み始めた視界はもう、進藤の姿は見えていなかった。
「俺、塔矢を目標にしてやってきたけど。大事なもん全部捨ててチャンスにしがみついてきたんだ」
 静かに呟くように口にした進藤の言葉。顔を上げることができず奈瀬は俯いたまま黙っていた。
「友達も、好きだった場所も、俺に碁を教えてくれたやつのことも、全部手から離れていった」
 院生の頃を知る奈瀬は、静かに話し出した進藤に驚いた。碁を打つのと引き換えのように、歳相応の遊びをしてこなかったこと。それは奈瀬自身も望んでやったことだ。確かに寂しいけれど、気晴らしも必要だけれど、院生として制限をかけるのは皆やっていることなのだろう。
 進藤の言葉は、後悔と寂寥が入り混じっているようだった。
「俺ガキだから、そのせいでいっぱい迷惑かけてたんだ。塔矢の前に立つためだけにプロになった。後悔したこともあるけど、今は満足してるんだ。だって碁打てるんだし。……なあ、チャンスがあるならやればいいんだよ。女流とか関係なくさ。実績さえ作れば、誰だって見る目は変わるんだ。今年いいところまで行ったんだろ。諦めきれないならぎりぎりまでやればいい。皆と一緒の道だけじゃないんだ。奈瀬にはまだ道が残ってるんだからさ」
 瞬きをすれば雫が止まることなく流れ落ちる。袖で無理やり拭いながら、奈瀬は唇を噛んだ。
「まだチャンスがある。奈瀬はプロになりたい。もう少しでプロになれそうだったんなら、あと一歩じゃん。ここで辞めたら奈瀬だって後悔が残るんじゃねえの?」
 しゃがみこんで膝を抱えれば、進藤も視線を合わせるように座り込んだ気配がした。道端の人もよく通る場所だったけれど、奈瀬にそれを気にする余裕はない。
「……わたし、やれるかな」
「やれるかどうかじゃなくて、やるんだよ。自分が満足するにはやるしかないんだ」  進藤はそうやって今までやってきたのだろう。己を奮い立たせて、周りを顧みず。躓いたことだって本当はあるのだろう。それでもただひたすらに碁盤に向かい合ってきた。
 進藤だけじゃない。きっと皆そうやってあの世界にいるのだろう。
「……うん。ありがとう」
 涙は止まらなかったけれど、奈瀬はようやく顔を上げて笑みを浮かべた。


「文化祭?」
「そうなの。いつも行かないんだけどね。今年最後だしせっかくだから」
 女流棋士採用試験に向けて気持ちを新たにした奈瀬は、引き続き和谷の研究会へと顔を出していた。あの日発破をかけてくれた進藤に礼と謝罪をしたけれど、何のことだとしらを切られてしまった。
「和谷たちも来る? 用事がなければだけど」
「いつ?」
「十月のね、三周目の金土だったかな。私のクラスは映画放送するみたい。あのね、囲碁部もあるのよ」
「俺行きたい。ちょうど空いてるし。囲碁部覗いてみてえな」
「うーん、土曜だったら行けるかな。伊角さんは?」
「俺も行けるよ」
「そう、じゃあ三人分チケット取っとくね」
 和谷と進藤と伊角の三人が名乗りを上げてくれ、奈瀬は笑顔を見せた。本当はプロ試験に合格してから話をしたかったけれど、終わったことを蒸し返しても意味が無い。
 囲碁部に在籍する筒井の存在を進藤に教えたかった。あの日進藤が話した、碁を教えてくれたやつという人は筒井ではないのだろうけれど、応援してくれている人がいることに気づいてほしいと思う。
 プロ試験に落ちた日に会った進藤に、なにかお礼がしたかった。
「この間の塔矢と芹沢先生の棋譜もらってきたぜ。検討しよう」
「やりやがったな、塔矢のやつ。一目半勝ちだったか」
 リーグ三次予選の塔矢対芹沢の棋譜を並べながら会話をする。奈瀬も碁盤の傍に座り、盤面を見つめた。

「奈瀬ーっ」
 教室の外から声がした。顔を向けるといつもの三人の姿が目に入る。クラスメートに声をかけ、奈瀬は彼らの傍に駆け寄った。
「おはよ。どこか回った?」
「こいつがたこ焼きうるせーから、ちょっと出店見て回ったくらい」
「和谷だって焼きそば探しただろ」
 院生の頃から仲が良い彼らは、プロになっても同じようにつるんでいる。いつまで経っても子供同士のようなやり取りをする和谷と進藤に、伊角がなだめたり茶々を入れたりする関係性は、見ていて微笑ましい。
「どこか見たいものある?」
「俺囲碁部見たい! 部室どこ?」
 小さなりんごあめをかじりながら地図を眺める。ここ、と奈瀬が指したのは、将棋部室と書かれた場所だった。
「将棋部と同じ場所に囲碁部があるのよ」
「やっぱり世の中は囲碁より将棋かあ」
「将棋より碁のほうが面白えのに」
「進藤、将棋できないんだから比べられないだろ」
 引き戸の扉は開け放たれていた。前の扉には将棋の駒の絵が、後ろの扉には囲碁教室、と書かれている。
「奈瀬さん、いらっしゃい」
 先頭に立っていた奈瀬が後ろの扉から部室に足を踏み入れた。碁盤の前に座っていた男子生徒が立ち上がる。和谷と伊角も続けて入っていく。
「お客さん連れて来てくれたの? 嬉しいな、あんまり人が来なくて……あれ、この人たちどこかで……」
「……筒井さん!」
 最後に入ってきた進藤の驚いた声が上がる。振り向けば、目を丸くさせた進藤が口を開けて男子生徒を見つめていた。
「進藤くん!」
 椅子をがたがたと鳴らし、掛けている眼鏡を落としそうになりながら名を叫んだ生徒は奈瀬たちの前へ飛び出てきた。一行の最後尾にいた進藤もまた、伊角と和谷を押しのける。
「奈瀬と同じ高校だったの!? 久しぶり!」
「進藤くん、久しぶりだね! うわあ、嬉しいな。まさか会えるなんて」
「え、進藤プロ!?」
「進藤プロだ!」
 筒井の傍にいた生徒たちも目を輝かせて近寄ってくる。何を隠そう、ここの囲碁部は進藤ファンの集まりなのだ。
「ああ! 見たことあると思ったら、和谷三段と伊角初段ですよね!? うわあ、棋士三人にも会えるなんて思わなかった。あ、あの握手してもらっても?」
「筒井くん、意外とミーハーなのね」
「だ、だって週刊碁で見てたんだよ。ありがとうございます。お二人も頑張ってください」
 恐縮したように照れる和谷と伊角に、奈瀬も笑みを零した。筒井の喜びようは見ていてこちらも嬉しくなるほどだった。
「なんで俺こんなに歓迎されてんの?」
「進藤くんの活躍ずっと見てるからね。僕、北斗杯も見に行ったんだよ。そうだ、若獅子戦優勝おめでとう! きみが頑張っているの見て、元気をもらってるんだ」
 眉毛を八の字にして頬を染めた進藤に、筒井はなおも言い募る。勢いに押されて仰け反ってしまっている進藤を眺めながら、三人はから笑いを漏らした。
「彼、進藤の中学の先輩らしくてね。私もたまたま知ったんだけど」
「へえ。先輩がずっと応援してくれてるのか。嬉しいだろうな」
「周りの人たちも進藤進藤って、すげえ人気」
「筒井くんのおかげで、囲碁部の人たち皆進藤のファンなんだって」
 おお、と伊角が感嘆の声を上げる。和谷は羨ましそうに囲まれて話し込む進藤と筒井を眺めていた。
「なんの騒ぎだこりゃ」
 囲碁部の一角がお祭り状態で騒ぎ立てている時、男の声が前から近づいてきた。扇子を手に寄ってきたのは、少しガラの悪い背の高い男だった。
「あ! 進藤くんこいつ」
「進藤お?」
 呼ばれて振り返った進藤が生徒を目に捉え、ぽかんと口を開けた。ええ、と驚く進藤に、ガラの悪い生徒もまた目を丸くする。
「進藤!」
「加賀あ!?」
 筒井はひたすらに笑っていた。奈瀬を振り返り、声を出さずにありがとう、と唇を動かした。
「ふうん。加賀と筒井さん同じ高校行ってたんだ。二人とも囲碁部と将棋部で、中学の時と変わんねえな」
「お前な、来るなら来るって言いやがれ。この俺が驚いちまっただろうが」
「だって俺加賀の連絡先なんか知らねえし、そもそも奈瀬の高校の文化祭に来たんだってば」
 碁盤を挟んで椅子に座り、ようやく落ち着いたかのように元葉瀬中の面々は会話を楽しんでいた。囲碁部への客は今奈瀬たちしかいないため、和谷や伊角は囲碁部の生徒たちと打っている。
「僕も奈瀬さんと知り合って、進藤くんのことを聞いたんだけどね。まさか会えると思わなかったなあ。本当にびっくりしたし、嬉しいよ」
「俺も筒井さんと奈瀬が同じ学校なんてびっくりだよ」
 笑みを絶やさない筒井からは、喜びの感情しか伝わってこない。進藤も加賀も楽しそうにしている。
「ここの囲碁部はね、人数は少ないけど皆強いんだ。僕なんか全然歯が立たなくて」
「そうなの? そうだ筒井さん、打とうぜ。せっかく囲碁部に来たんだから。加賀も打てよ。こてんぱんにのしてやるぜ」
「何だと進藤っ」
「打ってくれるの? 何子置けばいいかな」
「指導碁じゃなくてさ、互先にしようよ。昔みたいにさ」
「……うん、じゃあ、そうしようか」
 そうして始まった二面打ちは、和やかに進む。
 いつの間にかプロの指導碁が始まってしまった囲碁部は、覗く人も少ないためかのんびりと打つことができた。進藤との一局が終わった筒井は和谷や伊角とも打っていた。プロ相手なんだから指導料が、と呟く筒井に、和谷も伊角もプライベートだからと気前よく指導碁を買って出た。
 加賀と筒井の二面打ちが終わった進藤は他の囲碁部員に指導碁を打っている。各々楽しそうにしている様子は、奈瀬にとっても嬉しいものだった。
「じゃあね筒井さん、今日は楽しかった」
「こちらこそ。皆さんもありがとうございました」
「いえいえ」
「筒井さんも加賀も、元気そうで良かったよ。俺、もっと頑張るから」
「うん。応援してるからね。僕も頑張るよ」
 昼ごろに来たはずの部室は、すでに赤く染まっていた。廊下に出ても人はまばらだ。随分長居してしまっていた。
「じゃあ、またね筒井さん」
「進藤くんも元気でね」
 囲碁部を後にして、人気の少なくなった廊下を四人で歩く。腹減ったな、と和谷が呟き、伊角も同意した。
「まだなんか売ってるかな」
「なかったらどっか寄って帰ろうぜ。奈瀬も行くだろ?」
「そうね。学校の近くにバイキングあるわよ」
「よーし、そこ行くか」
 行き先が決まれば自然と歩く速度が上がる。三人に追いつくように歩幅を上げた奈瀬を振り向いた進藤が一言口にした。
「ありがとな」
「何のこと?」
「……コノヤロお」
 知らんぷりを決め込めば、一つ瞬きをした進藤がしてやられたという表情で奈瀬を見た。お礼を言われるようなことなどしていない。奈瀬はただ、自分が通う高校の文化祭に誘っただけなのだから。


 年が明け、和谷の研究会に顔を出さなくなった奈瀬はバレンタインデーの翌週、その年初めて顔を見せた。
「久しぶりだな、奈瀬。なんだその荷物」
 いつもの奈瀬はカバンひとつ持っていただけだったのが、今日は紙袋を二つも提げている。ちょっとね、とだけ口にした後、全員が集まるのを待ってようやく紙袋の中身を見せた。
「はい、一週間遅れたけどバレンタインのチョコレート。お世話になったからね、どうぞ受け取って」
 小さな箱を取り出し、奈瀬は配り始めた。ぽかんと渡された箱を見つめていた和谷は、奈瀬からチョコレートをもらうなど初めてのことだと感動していた。
「珍しいな、院生のときだってこんなことしてなかっただろ」
「だから、お世話になったからだってば。えへへ、私も春から棋士になるから」
「女流試験受かったのか! やったな奈瀬!」
 部屋にいる者たちが湧き立ち、皆祝いの言葉をかける。あの日諦めかけたプロの道を、ようやく奈瀬も歩き出すのだ。
「はい、進藤にも。……ありがとね、本当に」
「研究会に参加しただけで大げさだなあ。頑張ったのは奈瀬だろ」
「そうそう。そうだ、奈瀬の合格祝いしなきゃな。どっか店でパーッとやろうぜ」
 和谷の主催する研究会は同年代が多い。師匠の研究会はもちろん勉強になるけれど、プロになりたい気持ちを強く持っていられたのは、前を見続ける彼らに感化されたのが大きい。
 そして、泣いて泣いて八つ当たりをしてしまったあの時、もう一度前を見据えることができたのは進藤のおかげだ。
 ずっと憧れ続けたプロの世界に、入り口に立つことができたのだ。


「やっぱりいた。筒井くん」
 卒業式の後、そっと覗いた将棋部室の奥に彼はいた。碁盤に手を当てて微笑む姿は、この場所にもう来なくなることを惜しんでいるようだった。邪魔をしてしまったかと少し思うが、奈瀬はそのまま筒井の傍へと近寄った。
「奈瀬さん」
「筒井くん、あのね。私女流試験に受かったの。春から私もプロ棋士だよ。それを伝えたくて」
「おめでとう! 知り合いに棋士が二人もいるなんて、なんだか誇らしいよ。奈瀬さんのことも応援するからね」
「ありがとう。本当に、ありがとうね」
「……奈瀬さん?」
 不思議そうに首を傾げる筒井に、奈瀬は微笑んだ。碁が好きだという気持ちを思い出させてくれたのは、筒井と打った一局があったからだった。院生として長く足踏みしたままずっと抜け出せなかった苛立ちや、自分より年下の者たちが先に行く悔しさばかりが募り、純粋な思いを忘れかけていた。楽しそうに打つ筒井の姿を見て、彼の打ち筋を眺めて、奈瀬は思い出したのだ。碁を打つのは面白いということを。
「プロになりたいって、最初の気持ちを思い出したのは筒井くんのおかげなんだ。進藤や和谷たちにも随分迷惑も世話もかけたけど、碁を好きだって気持ちを思い出させてくれたのは筒井くんだったんだよ。だから、お礼が言いたくて」
「僕、何もしてないと思うけど」
「うん、何もしてない。ただ碁を打っただけ。でも、筒井くんとの対局で私思い出したの。私、碁が好きなの。ずっと忘れてた、そんなこと」
 筒井の碁に対する直向きな姿勢は、話に聞くだけでもわかるくらい真摯なものだった。筒井の打った碁には、筒井らしさが充分に感じられた。碁を愛するということを教えてくれたような気がしたのだ。
「成績ばっかり気にして、何のためにプロになりたいのか、一番最初の気持ちを忘れてた。それをもう一度教えてくれたの。強い弱いじゃなくて、ただ自分にとって碁ってなんなのか。それを筒井くんは一番知ってる気がしたの」
 静かな部室に、鳥の声が響いた。
 院生最後の年で、奈瀬はいろんな人にいろんなものを教わった。前を見続ける強さを、プロ試験に臨める力を、碁を好きだといえる気持ちを。
「だから、ありがとう」
 きっと、これからもっと苦しい戦いに身を投じることになる。どれだけ辛くても続けていける強さを持ち続けるのは容易ではないだろう。それを承知でプロになった。その苦しい戦いですら、楽しいと思えるような強さを持ちたい。奈瀬の心は決まっていた。
「頑張ってね。ずっと応援してるから」
「筒井くんも。会えて良かったよ」
 進藤を見守りながら応援する筒井は、進藤が慕う人だった。小さな偶然の出会いは、奈瀬の心を大きく揺るがすものだった。
 私、棋士になるよ。
 憧れ続けるだけだったあの世界に、ようやく奈瀬は進み始める。
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