かなし

「公主様は、想いを寄せる方などはいらっしゃらないのかしら」
 ぼそりと呟いた少女の言葉に、共に食卓の用意をしていた姉弟子の赤雲は顔を上げた。
「なあに、いきなり」
「確かに、公主様はお強いし、美しい方で、公主様とお近づきになりたいと思っている人は多いわ。でも、公主様が誰かを想うなんて、私たちそんなところ見たことないわよね」
 妹弟子である碧雲のセリフに、赤雲も首を傾げた。確かに、自分たちがこの鳳凰山の金鑾斗闕に来てからは、彼女が誰かに焦がれている様子を一度も見たことがない。友人である十二仙が訪問した時も、太公望や楊戩が訪れた時も、彼女の表情は穏やかなものだった。それが碧雲には疑問に感じたのだった。
「そりゃあ、公主様に見合う人なんて、数えるくらいしか……。十二仙か、原始天尊様くらいじゃないの」
「見合う人じゃなくたって、公主様が好きになるのならいいのよ。ただ、公主様は誰に対しても平等でいらっしゃる。それが意外で……」
「……聞いてみる?」
 誰に? と怪訝そうに碧雲は赤雲へと目を向けた。まさか、本人に直接聞くわけにもいかない。昔から知っているという原始天尊にもだ。
「そりゃあ、公主様を良く知っていて、尚且つ聞きやすそうな人に」
「そんな人、いるかしら?」
 未だ訝しげに眉根を寄せる碧雲に、赤雲は少し考えた後、ぽん、と手のひらを叩いた。

「……それで、公主の恋事情を私に聞くの?」
 あからさまに嫌そうに顔を曇らせる乾元山の主人に、お願いしますと二人は頭を下げた。
「きみたちなら、本人に聞けるでしょう。だいたい公主が誰を好きだって、私は想像したくもないよ。これだけ永く知っているのに見向きもしてくれ……オホン」
 わざとらしく咳払いをして後半の愚痴をごまかし、太乙真人は溜息を吐いた。彼の淡い気持ちは赤雲も碧雲も知っているので、ごまかしは無駄だったのだが。
「そこを何とか。だって、公主様、あれだけお美しいのにお相手がいないなんて、信じられないわ」
「というか、これは公主様をモノにできない男の方に問題があるんじゃないかと私は思っているんです。そこのところ、どうなんです、太乙真人様」
 赤雲の言葉に太乙は少し前かがみになって胸を押さえた。痛いところを付かれたのだ。彼女らからしても永い時間を共に過ごしてきた十二仙ですら竜吉公主と深い仲になった者はいない。というか、それ以上踏み込めないのだ。純潔は純潔のままに。どこかでそんな思いが皆の心にあるのかもしれない。
「……それは、そうかも知れないけどさ。公主にこそ、選ぶ権利はあるんだよ。彼女の目に留まる者が此処にはいないってだけさ」
「でもお、強引にいっちゃえば公主様もほだされたかも」
「赤雲! なんてこと言うのよ!」
「冗談だって」
 ははは、と乾いた笑いを漏らす太乙は、目は笑っていなかった。竜吉公主の弟子であるこの赤雲という少女、なかなか恐ろしい思考の持ち主である。
「ま、まあ、考えられるとしたら原始天尊様くらいじゃないかな。公主もいい男だって言ってたし」
「えええ! 原始天尊様!?」
 大きな音を立てて立ち上がった少女二人を、無理もないといった表情で太乙は見やる。彼自身、原始天尊をいい男だと言った公主を信じられないような気分で眺めたものだった。もしかして、美的感覚が人とは違うのではとまで公主を疑ったこともある。
「彼女は原始天尊様の若い頃を知っているからね」
「若い頃かあ。それなら納得だわ」
「でも、相手が原始天尊様でも、公主様なら問題ないと思うのだけど」
 崑崙の教主と対等な立場である彼女は、確かに釣り合いのとれる相手である。それでも今の原始天尊よりは、まだ見た目的に若い者の方が太乙の気持ち的にも救われるのだが。
「玉鼎真人様とか、並ばれるととてもいい感じだと思うんだけど」
「そうね。道徳様は……ちょっと、暑苦しいかしら」
「あら。あれくらいパワフルな方が公主様も感化されたかも」
 女性というのは恐ろしい生き物だと太乙は思った。男が此処にいるんだけど、と心中で呟きつつも、それを口に出すことはしない。ていうか、私は候補に入らないんだなあ、と落ち込んでしまう。
「それで、太乙様。誰が一番公主様と仲が良いんですか?」
「……私じゃないかな」
 鳳凰山にはよく行くし。半ば不貞腐れたように太乙は漏らす。不満を口に出さず空気で醸し出す太乙に碧雲も赤雲も苦笑いを張りつけるが、とりあえず無視する。
「公主は、きっと俗物的なものに縛られないんだよ。いろいろあったことは知っているけれど、人の欲というものを、目の当たりにはしてこなかっただろうから」
 両親のことも、彼女は話として知っていた。けれど、過去の話としてだった。崑崙へ来た後も、気付かれぬうちに守られていた。人の欲を知らぬが故の純粋さを、失わぬよう、大切に、大切に。
「……確かに、公主様は、私たちから見てもとても純粋です」
「そうね。太乙真人様のあからさまな贈り物攻撃にもただの厚意としか取られてないもの」
 うっと顔を歪める太乙をさらに無視する件の女性の弟子たち。好意があることは認めるが、それは友愛でもあるというのに、と太乙は複雑な気持ちになる。
「あのね。今さらこんなこと言うのもあれだけど、私は別に、公主の特別な存在になりたいと切望してるわけじゃないんだよ。ただ笑っていてほしい、このままの関係で一緒にいたい。そういう感情もあるってこと」
「………」
 そう口にした太乙の顔をまじまじと見つめる二人に、太乙は少し怯んだ。その目が驚いたような、羨むような、何とも言い難い感情を含んでいたのだ。
「太乙様。それは……」
「もはや、恋ではありませんわ」
「だから、一概に恋とは言えないんだってば」
「そうではなく」
 困ったように目を合わせる女性二人に、太乙は少し泣きそうになる。どうしてこんなことを赤裸々に話さなければならなくなったのか。いや、口にしたのは自分ではあるが。
「恋を超越した感情ですわ」
「愛ですのよ、それは」
「は、」
 ほんのりと恥ずかしそうに頬を染める二人は可愛らしいものだった。一瞬の間、太乙は瞬きした後盛大に顔を真っ赤に染めた。
「まあ、気付かないままそんなところに」
「仙道って、奥が深いわ」
 しみじみと言われ、その後何事もなかったかのように洞府を去って行った二人を見送り、この火照った顔をどうしてくれるんだと太乙は悪態をついた。
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