誰が為に

 切羽詰まった様子の原始天尊からの呼び出しに、竜吉は玉虚宮へと急いだ。
 普段は竜吉の体を案じてか、原始天尊から鳳凰山へとやってくる方が頻度が多い。しかし今回は竜吉の体調を気にしていられないとでもいうように、彼からの連絡は矢継ぎ早に伝えられた。
「どうなされた、原始天尊」
「おお、来てくれたか。こちらじゃ」
 早足で歩き出した原始天尊に導かれるように、ある一室へと足を踏み入れた。寝台に寝ていたのは、小さな子ども。そして、手前に座っていた男。見覚えのある姿に、竜吉は息を飲んだ。
「……竜吉、か?」
「父、うえ」
 頬がこけて手足もやせ細り、竜吉が一緒に暮らしていた頃とは父は随分変わっていた。それでも瞳の色は変わらず、こちらへ向ける視線は優しいものだった。
「……美しく、なったな。母に、似てきた」
「父、上……」
 立ち竦んだままの竜吉に、父は依然と変わらず優しい言葉をかける。懐かしさに涙があふれたのは、自然なことだった。会えるとは思っていなかったのだ。
 竜吉が仙界へと居住を移し、母である瑶池金母が天界へと向かったしばらく後、彼女が亡くなったと情報が仙界で流れた。予想はしていたが竜吉はそれでも目に見えて落ち込んでいた。仕方のないことだった。いくつになっても肉親の喪失は凄まじいものだ。人間界にいるであろう父親にも耳に入っただろうその一報は、どれほどのものか想像してもつらいものだった。
 母が会いたいと焦がれた父は、戒めのように人間界から動かなかった。二人の子である以上、竜吉も、無念のうちにいなくなってしまった母を想い、父と会おうとはしなかった。
「儂は、もう長くはない。竜吉、お前の気持ちを汲んで、二度と会わぬつもりでいた。勝手だとは思うが、お前と、原始天尊、そなたにも頼みがあって、無理を承知で崑崙へ戻ったのだ」
 時折苦しそうにせき込みながら、父はゆっくりと話を始めた。
 竜吉と母親が天界へ向かった頃から、父はずっと心配で不安だったという。滅多に病気をしない仙道であるが、何年もずっと気に病んでいたのなら、どこか体を悪くしていても不思議はない。母が死んだと風の噂で聞いて、ついに父は倒れた。体を動かすこともままならなくなり、ずっと床に伏せていたという。
「原始天尊は、一度儂を訪ねて来てくれた。儂とお前を会わせてやりたいと。お前が此処に移り住んですぐの頃か。儂は当時起き上がることすらできず、しかし折角療養して元気になったお前を人間界に来させるのも嫌だった」
 それは、母の願いでもあった。父のためにも、仙界を出てはならないと。愛に生き死んでいった母の想いは、死してなお父を想い続けるものだった。それを知っていたからこそ、竜吉は此処を動くことはしなかった。
「それでいいのだ。お前が生きていてくれるなら、儂はどうなっても構わない。しかし、」
 ちらりと、後ろの寝台へと父は目をやる。眠っている少年は、初めてあった気がしなかった。
「これは、儂の子だ。……お前の、弟なのだ」
 原始天尊の目が労わるように竜吉に向けられたのを感じた。しかし竜吉は、その言葉が父の口から出たことに、驚きはなかった。
 母が死んで動けなくなった父を、看病しに来てくれていた女性がいたのだという。それを知って竜吉はどうして、と思わないこともないが、妻と子を気に病む半面、父が少しでも幸せと感じていたのなら、竜吉はこれ以上の喜びはなかった。
「幸せ、だったのですね、父上」
「お前は、儂を、裏切ったとは言わぬのか」
 優しい笑みを浮かべる竜吉に、父は問うた。
「何故です? 父上が裏切ったというのなら、それは私も同じことです。長い間独りにさせてしまった。そして、母上を止められなかった。病に伏せる父上に気付かず、私は、ずっと崑崙で、幸せに暮らしていました」
「お前が気に病む必要はない。すべて儂の所為だ」
「そんなこと。私がもっと、しっかり、していれば」
「……父様?」
 寝台の上の小さな体がいつの間にか起き上がって、竜吉と父を交互に見やる。真っ直ぐな目はとても純粋で、竜吉はすぐに目元を拭った。
「泣いてるの? どこか痛いの?」
「……そうではない。大丈夫、ありがとう」
「誰かに何かされたの? 僕がやっつけてきてあげようか」
 幼いながらも人を労わることを知っている少年に、竜吉は顔を綻ばせた。父が少年を手招きして、寝台から下ろさせる。
「お前の、姉だ。燃燈」
 驚いたように大きな目をさらに大きくさせて、ぱちくりと一つ瞬きした。いきなり姉だと言われても、十にも満たない少年は驚くだけだろう。拒絶されるかもしれないと竜吉の体は強張った。
「姉、さま?」
「初めまして、竜吉という」
 燃燈です、と元気よく挨拶をする少年に、ほっと息を吐く。どうやら、拒絶されているわけではないようだった。
「原始天尊。この子には仙人骨がある。どうか、修業させてやってはくれないか」
「ええ。それは構いません」
 原始天尊の了承に父は頷き、燃燈へと体を向ける。
「燃燈。お前は、これから此処で仙道になるために修行をするのだ。常日頃強くなりたいと言っておったな。それは何故だ?」
「母様を、お守りできなかったからです。僕は、父様みたいに、強くなりたいです!」
「……儂は、誰ひとりとして守れたことはなかったが。燃燈は、そんな人間にはなるな」
「そんなことない!」
 思わず同じ言葉を叫びそうになった竜吉は、今にも泣きそうに顔を歪める燃燈を見つめた。
「母様は言ってました。病気になる前の父様は、それは人々を大切にしていたと。父様のようになりなさいと。幸せを奪ってしまった自分すらを大切にしてくれたって」
 燃燈の言葉に、竜吉は燃燈の母親は自分も知っている人物かもしれないと思う。病気になる前の父は、母と娘と、三人で暮らしていたのだから。
「そんなことはない。母は、儂を守ってくれたのだ。その母を、儂はまた、守れなかった。すまぬ」
「いいえ、いいえ父様。僕は父様が大好きです。母様も父様が大好きでした。謝らないでください」
「……ありがとう、燃燈」
 真っ直ぐな子どもに育っている。竜吉は誇らしい気持ちだった。同時に、この父の娘でよかったと心底思う。
「お前に、頼みたいことがあるのだ」
「はい、父様」
「儂が守れなかった竜吉を、お前が守ってはくれないか」
 此方へと顔を向けた燃燈と、顔を上げた父に竜吉は見つめられる。それではいけないと竜吉は床へと座りこむ父の目線に合わせるように膝をついた。
「私はずっと、守られてきました。父上、燃燈は……私が、守ります」
「竜吉には、随分苦労をかけた。良いか、燃燈。竜吉は人間界では生きて行けぬのだ。それを知らず毒の中生活させるような仕打ちを受けさせてしまった。悔やんでも悔やみきれぬ。抗えぬ罪だ」
「そんな……。父上、私は、幸せでした。父上と母上と、一緒にいられたのですから。私の体のために、奔走してくださったのです。竜吉は、幸せです」
 言葉は本心だった。竜吉は、最初こそ寂しいと思わないこともなかったが、一度も恨めしいと思うことはなかった。
「ありがとう、竜吉……。それだけで、儂は救われた」
 ふらつく父を竜吉が支えながら立ち上がり、それに習うように燃燈も腕を支える。親子の再会を見守っていた原始天尊へと向き直り、深く頭を下げた。
「おぬしには、迷惑ばかりかけるな。教主となったおぬしを支えてやることもできずに、身勝手なことばかりをしてきた儂を、許してくれとは言わん。ただ……二人を、崑崙に置いてくれ」
「許すなど。私は初めから貴方を恨んでなどいませんよ。再会できて、本当に良かった。燃燈は私の弟子として此処で修業させましょう。竜吉公主にとっては、もともとは此処は故郷なのだから」
 柔らかい笑みを浮かべる原始天尊に、もう一度父は一礼をして、燃燈に目を向けた。
 少し泣きそうな表情をしているのは、気のせいではないだろう。
「燃燈、頼んだぞ。お前は強い子だ。儂など足元にも及ばぬ、立派な仙人となるだろう」
「はい。姉さまを、お守りできるような、父様のような仙人になります」
 約束です! と目に涙を溜めながら、戻ろうとする父の背中をずっと見つめていた。
 ぐいと袖で目元を拭い、燃燈は原始天尊へと顔を向けた。
「原始天尊様、これからお世話になります」
「うむ。では荷物を置いてきなさい。竜吉公主は、お戻りになるか?」
「そうだな……。では、戻ろうか。お邪魔にもなるだろうし」
 パタパタと呼びつけられた道士に連れられ、燃燈は玉虚宮から出ていった。
「聡い子だな。あの歳で、父との別れを理解している。母も、もういないようなのに」
「おぬしに良く似ておるよ。お父上とも」
「え、」
 片親が別々にも関わらず、原始天尊は似ているという。それが無性に嬉しくて、竜吉は顔を綻ばせた。
 竜吉が崑崙へと住むようになって何年も経ち、少女は女性へと成長した。もともと美しかったかんばせはさらに磨きがかかり、母親とは違った美麗さと、年相応の無邪気さを持つ女性へと変貌を遂げていった。
 花開くような笑顔を見せた竜吉に、原始天尊はうんうんと頷く。
「こりゃあ、仙道とはいえ放ってはおかんのう」
「何の話だ?」
「いやいや、成長するにつれて美しくなっていくおぬしに、世の男どもは魅了されるであろうなあ。知っておるか、公主? 崑崙では噂の的じゃということを」
「そんなこと。私のような虚弱体質を、珍しく思っているだけだろう」
 困ったように頬を染める竜吉に、原始天尊はまずいなと気付かれぬよう呟いた。自身の美麗さを自覚していないその初々しい様子も可愛らしいと思う反面、あれだけの美しさを誇った母親を持つ自分が絶世といわれるに値する容貌だということに、何故気付かないのだろうと原始天尊が思っているのを、竜吉は知る由もない。
「まあ、よいが。休みの日には燃燈とも会えるだろう。寂しい思いは両者にもさせたくはないからのう」
「ありがとう、原始天尊」
 嬉しそうに笑う竜吉に、原始天尊も笑顔を返した。

*

「姉さま! お元気ですか」
 初めて顔を合わせたその日から、燃燈は竜吉を姉と呼んでいた。本心からか気遣いなのか、それはわからなかったが、竜吉の心を満たしたことに変わりはなかった。
 普段からよく洞府へと訪ねてくれる原始天尊や、いろいろと気遣ってくれる優しい崑崙の仙道たち、可愛い可愛い弟の存在が、竜吉にとって何より嬉しいものだった。
「元気だよ、燃燈。おぬしはいつも元気いっぱいだな」
 にこにこと屈託なく笑う竜吉の弟は、年の割には頭の良い子だった。誰より竜吉を慕う姿に、将来はシスコンになるんじゃないかと面白がって仙道たちは噂する。
 姿すらあまり拝むことのできない竜吉が、燃燈が来てからは前よりも笑う頻度が多くなったと原始天尊が口にし、花のかんばせが綻ぶさまを見た者は呆けたように頬を染める。仙界の姫、奇跡とまで称される彼女が一躍絶世の美女と崇められるようになるのに、時間はかからなかった。
「今日は、原始天尊様から渡してくれと頼まれたものがあります」
「頼まれたもの?」
「はい。何か、暇つぶしになるものをと」
「ああ、気を使わせてしまったのだな。今度お礼を言わなくては」
 ごそごそと燃燈が出してきた物は、比較的薄い書物だった。ぴらりと一枚めくると、それは料理本のようだった。
 む、と竜吉は見た目にはまだ若い教主を思い浮かべる。食えない笑みを常に湛えている竜吉の恩人であり友人、そして弟である燃燈の師となった人物だ。
「料理、本? 何故原始天尊様はこれを……」
「……やれやれ。敵わぬな」
 普段一人であり修行の必要のない生まれながらの仙女である竜吉は、暇を持て余していた。
 料理本を送ってきたのは、竜吉が滅多に食事をしないことを知って、その身を案じて気を利かせてくれたのだろう。一人分の食事を作るのは面倒であり、自身の作ったものを一人で食べるのは味気ない。本来食事は基本的に必要はないが、仙道も元は生き物であり、空腹は感じるはずなのだ。
 にしても、と竜吉は思う。こんな本を燃燈に持たせて、この子が気付かないはずがない。
 現に今、考え込むように口元に手を当ててしまっている。まずい、と竜吉は思う。
「……燃燈、何か飲むか?」
「姉さま、食事はちゃんと取っていらっしゃいますか?」
 来た。疑うように目を此方へ向ける燃燈に、竜吉は嘘をつけなかった。大事な守るべき弟に、どんな小さな嘘でもついたためしはなかったのだ。
「……腹は空かぬ」
「空かなくても、取ってください! 食事は大事です、元気が出るし、力も出ます! そりゃあ、姉さまはお強いですが、お身体は大事になさってください」
「ずっと取らぬわけではないぞ。おぬしや客人が来た時はきちんと食べる」
 一人で食べる食事は、寂しい。いつだって竜吉は人と食事を取ってきた。崑崙へ来て初めて一人になって、食卓の寂しさに涙が出そうになったことがあるのだ。
「姉さま」
「……わかったよ。明日から、食べることにしよう。原始天尊にも知られてしまっているようだし」
「本当ですね!」
 ぱっと明るくなった少年の表情に、竜吉は微笑む。気は向かないが、言ってしまった手前仕方ないと溜息を吐いた。

「恨むぞ、原始天尊……」
「何がじゃ?」
 しれっと知らん顔をする原始天尊に、竜吉はじとりと視線を向ける。ぱさ、と音を立ててテーブルに置かれた雑誌に、おお、と原始天尊は声を上げた。
「手土産はお気に召さんかったかな?」
「そういう問題ではないのだ。燃燈がこれを見て、気がついてしまったわ」
「おや、何か後ろめたいことでも?」
 頭を抱えて項垂れる竜吉に、実に楽しそうににんまりと笑う。この男は、すべてわかっていながら素知らぬふりをする。竜吉は柄にもなく叫んでしまいそうな衝動に駆られるが、はしたないのでそれはしない。
「毎日食事をと、約束させられてしまった」
「当り前のことを言うでないよ、公主。仙道だろうが食事は大事じゃ。特に、おぬしはな」
「何?」
 微笑みを浮かべる原始天尊に竜吉は顔を上げる。
「その体質は治りようがないが、栄養を取ればましにはなるじゃろう。燃燈もおぬしには元気でいてほしいのじゃ。私もな」
「しかし、一人分の食事は味気ない」
「おお、では弟子でも取るか? 弟子でなくとも、使用人の一人でも置けば、燃燈も心配させずに済むじゃろう」
 使用人、と竜吉は呟く。弟子を取るには聊か気が重いが、使用人ならば、と竜吉は一人納得する。
「しかし、使用人といってもどこから……」
「深く考えなくとも良い。おぬしの使用人になれるのならばと、喜ぶ者は大勢いると思うぞ」
「そうだろうか……」
 不安げに俯いた竜吉に、原始天尊はさっそく募集して来ようと意気揚々と竜吉に言った。


「原始天尊様、姉さまが使用人を雇ってから、楽しそうです」
「そうかそうか。それは良かった」
 厳選に厳選を重ねて、実際に竜吉と面接したのはごくわずかだった。使用人といっても男は募集事項には入っていない。竜吉公主のお付きの者であるなら女性限定となる。そして気立てが良ければ少女でも構わないと原始天尊の作ったチラシには書いてあった。
 結局、彼女が選んだのは燃燈とそう変わらない歳格好の少女だった。明るく良く気が利き、元気な子だと竜吉は嬉しそうに言った。
「名は何だったかのう」
「確か、雪蓉(せつよう)と呼んでいました」
「ほう」
 楽しそうな姉の様子に弟である燃燈も嬉しそうだった。料理本をこれ見よがしに準提に頼んだ時はひどく嫌そうに顔を顰めていたが、結果オーライというところだろう。
 何にせよ、寂しい思いもせず食事ができるのだ。心配もなくなるというものだ。
「おぬしは今まで通り、公主の洞府に遊びに行けばよいぞ」
「はい!」
 少年の大きな返事に、原始天尊はにっこりと笑った。
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