一つの我儘

「お前、燃燈か?」
 ふとかけられた声に振り向くと、自分と同じくらいの背格好の男が数人立っていた。
 両親の墓参りへと人間界へ下りる許可を特例で原始天尊から貰い、燃燈は修業中の身でありながら生まれ育った故郷へと里帰りしていた。
 父は人間界へと戻った後、住んでいた家に帰らず何処かへと消えた。その亡骸が見つかったのは、そこから遠く離れた場所だった。原始天尊とともに父を抱えて燃燈の母の隣へと埋葬したのだった。
 姉はそれを喜んでくれたが、それでも燃燈は彼女の母を想い心中で謝った。
「そうだが」
「誰だよ?」
「ほら、あの仙人の……」
「ああ、あの」
 父の話をしているのだろうと予想はついたが、彼らの表情に燃燈はむ、と眉間にしわを寄せる。
「此処に住んでたっていう、弱い仙人様の子だよ、燃燈は」
「……弱い?」
 聞き捨てならない言葉を吐き捨てるように口に出され、燃燈は苛々した様子を隠すこともなく睨みつけた。
「お前が父の何を知っている。無礼なことを口にすると、痛い目に合うぞ」
「さすが、仙人様の子は無理やり解決しようとするんだな」
「一人だけ逃げおおせた、仙人様の息子だからな」
「何の話だ!」
 ついに我慢できなくなった燃燈は声を荒げ、つかつかと敵意をむき出しにするリーダー格の少年へと近寄る。逃げるなど、父の心には言葉すらなかった行為だ。
「仙人であるお前の親父は、この町を見限って逃げたんだよ!」
「そんなことはない! 父上はいつだって……」
「じゃあ、この町はどうしてこんなに荒れ果てているんだ! お前の親父が逃げなければ、飢えて死ぬ者も殺されることもなかったんだ!」
 はっと周りを改めて見つめる。此処に来た時の違和感は、住人のいなくなった家が廃屋と化していたからではなかった。来る前も燃燈が感じていたのは、これだったのだ。
 この町に降り立って思ったのは、人が少ないことだった。今は夜中というわけでもない。市場には人で溢れていても不思議はないのに、広場は閑散としたものだった。父が死期を悟ってこの町を離れた後飢饉が襲ったのなら、それは時期が被っただけのいわれのないことだ。
「殺されるとは、どういうことだ?」
「仙人界でぬくぬくと暮らしていた奴にはわからない話か。お前らが此処を逃げた後、待ってましたと言わんばかりに化け物が襲って来たんだ。大勢な。お前らが呼んだんだろう、疫病神!」
「そんなことはしない! 何故そんなことをする必要があるんだ! 父上はずっと、病んでいたのだ。死を悟って此処を離れ、遠い場所で息を引き取った。その後のことなど、父上がどうこうできるはずもないだろう!」
 やつあたりであることは燃燈にも理解できた。それでも父を侮辱する彼らを許すことはできない。どれだけ時間がかかっても、わかってほしい。本人がこの世にいない今、切実に思った。
「お前はいいよな。コネで仙人界へ逃げたようなもんだ。天涯孤独の身になって、‘お姉さん’の同情を買ったんだろう。紹介してくれよ、綺麗なんだろ。それとも噂だけが一人歩きして、本当は人目に出られないくらいの醜女なのか、」
 ごつ、と骨がぶつかる音がして、さっきまでよく動いていた少年の口は止まった。どさりと背中から勢いよく倒れ込み、苦しそうに息をした。
 拳を振り上げたままの燃燈の表情は怒りに満ちて、少年らは少し怯んだ。
「訂正しろ。父上は決してこの町を見捨てるつもりで消えたわけではない」
 衝動的に殴ってしまったのは父のことが引き金ではないけれど。燃燈は食いしばって収まらぬ怒りを何とか堪えた。睨みつけてくる少年を見やりながら、瞬間、顔色が変わるのを目の当たりにし、少年の視線の先を振り向いた。
「まだ、外を出歩く奴らがいるのか。あれだけ痛めつけてやったのに」
「……妖怪、仙人か」
「あ? お前、仙道か」
 人間とは思えない姿の大きな化け物。崑崙では妖怪仙人は見たことはなかった。妖怪というだけで敬遠されがちななか、心根の優しい妖怪もいるのだと原始天尊は言っていた。今目の前にいる者は、破壊衝動を抑えられぬのか近くに生える木をなぎ倒して此方へと近寄ってくる。
 強い、と瞬時に判断した。今の燃燈の力では到底敵わないだろう。修業中の身で、宝貝も持たない丸腰だ。それでも、燃燈は此処を去るわけにはいかなかった。
 去ってしまえば、彼らの言ったことが真実となる。父のためにもそれはしてはならないと思っていたし、何より、理不尽に力を奮う妖怪仙人に、嫌悪を感じたのだった。
「この町を去れ。此処はお前が居て良い場所じゃない」
「お前のような弱い人間が、この俺に指図できると思うのか。若造が」
 ふ、と視界の端に動くものが見えたが、それを確認する前に、燃燈は衝撃を食らった。
「っぐ、」
 尾から繰り出された攻撃に燃燈は反応できずもろに食らった。弾き飛ばされ木の幹に背中を強かにぶつけた。
「弱えなあ。そんなんで本当に道士なのか? 俺が殺してきた奴にも、お前より弱い奴はいなかったぜ」
 体を折り曲げて必死に呼吸する燃燈を、妖怪はにやにやと笑いながら見下ろした。修業して数年。燃燈は自身の力のなさに悔しさを覚えた。
「黙れ……! お前のような、奴に、」
「信じられないってか? だが、これが事実だよ」
 胸倉をつかまれ放り投げられる。咄嗟に受け身を取っても、それは無駄だった。地面に崩れ落ちる体に、妖怪は容赦なく足を繰り出す。
「ぐ、うっ」
「ほら、そろそろ本腰入れねえと内臓が飛びだすぜ。命は惜しいだろ。お前一人なら見逃してやってもいいんだ」
 見ない顔だから、たまたまこの町に来たんだろう。そう言ってほんの少し、足に込める力を妖怪は緩めた。どこまでも侮辱する者に、燃燈の怒りは頂点に達する。
「見逃して、貰わなくて結構だ……! お前なんかに、」
「……そうか。では遠慮なく」
 内臓が圧迫されせり上がるような感覚がして、燃燈は思わず目を見開いた。視界に映った今までなかったものに、妖怪が気付くと同時にそれは攻撃した。
「ぐあ! な、なんだ、この水は!?」
 浮いた水のかたまりから飛び出した槍状のものが、妖怪に向かって幾度と攻撃する。いつの間にか燃燈と少年らの周りには、水の壁が彼らを守っていた。
「今すぐ此処を立ち去れ。殺生は好まぬ」
 何度も聞いた声。燃燈は目を疑った。人間界であるこの町に、自身の姉がいたことに。その表情は今までに見たことのない、冷たい目をしていた。
「……、誰かと思えば、純血の仙女さんじゃねえか。あんたの噂は人間界にも轟いてるよ。竜吉公主さんよう」
「迷惑なことだ。おしゃべりをしている暇があったら、この場を早々に立ち去った方が得策だぞ」
「ふん、この俺を倒せるとでも思ってんのか。意外と向こう見ずな性格だな」
 しゅるり、と竜吉の周りの水が形を変えていく。尾を動かそうとした瞬間、水は鋭利な槍に姿を変え、地面に縫い付けるように尾を貫いた。
「その言葉、そっくりお返ししよう。次は尻尾だけでは終わらぬぞ」
 美しい儚げな外見に似合わぬ無表情で冷たい声に、妖怪は思わず身震いした。まずい、と思うのが遅かった。ふわりと気付いたときには目の前に女の顔が迫り、声に出さずさようなら、と唇は言葉を象った。
 ぱしゃり、と水音がして、少年たちを守っていた水の壁は主のもとへと戻る。地面から浮いていた女性が近寄って傍に膝をつけるのを、彼らはただ見つめていた。
「私の父が、すまぬことをした。だが、理解してほしいのだ。父は決してこの町を見捨てたわけではない。すべては、私のせいなのだ。恨むのなら、私だけを」
 痛々しく目を伏せる竜吉に、少年たちは言葉を返せなかった。そのまま立ち上がって一礼すると、バタバタとその場を立ち去った。
 その後ろ姿をずっと見つめ、やがて燃燈のもとへと近寄る。
 父に誓った、姉を守ると言った言葉。この気高く強い姉を守るなど、おこがましいことだ。燃燈はまだ、守られる立場であることを痛感した。
「人の子に、手を上げるなど、あってはならないことだ」
「……すみません」
 素直に謝る燃燈に、竜吉は少し溜息を吐いた。
「だが、父の誇りを守ってくれたのだな。すまぬ」
 燃燈が顔を上げると、すぐ傍に姉の顔が見えた。その表情は先ほどとは違い、いつもの柔らかい表情だった。
「俺が、悪いんです。父上の去った後のこの町が、こんなに荒らされるなんて」
「未来のことなど、誰にもわからぬよ。父上だってそう。妖怪仙人がこの町で暴れるなど、誰も予想していなかった。そして、時期が悪かったのだ」
 宥めるように言う竜吉の顔を、もう一度見ることはできなかった。申し訳なくて居た堪れなくて、自分の力のなさに嫌気がさして、燃燈は項垂れたままでいた。
「俺は、姉さまを守ると、言ったのに。情けなくて」
「そんなことはない」
 労わるように差し出された手は、痛めつけられた部位をそっと撫でた。撫でられた場所から痛みが消えていっているような気がして、燃燈はやっと顔を上げる。
「おぬしは充分、守ってくれているよ。私は、守られていると、いつも感じるのだから」
「けれど、こうやって、俺は一人で妖怪を倒すこともできなかった。こんなんじゃ、駄目なんです。立派な仙人にはなれない、……姉さま!」
 げほ、と咳き込んだ竜吉を見て、この場所がどこなのか燃燈は思い出した。人間界は、竜吉にとって来てはならない場所なのだ。苦しそうに息をする竜吉を支えて、黄巾力士を呼び戻す。
「姉さま、しっかり! こんな無茶をさせてしまって、俺が、もっと強ければ、」
 燃燈が泣きそうに顔を歪める。美しい顔の眉間にはしわが寄り、胸を押さえて呼吸を繰り返す竜吉は、ふるりとかぶりを振った。
「ただ守られるだけはいや」
 弱々しい笑みを向けて、ただの我儘だから、と付け加える。
「私だって、何かを守りたい。父上の魂を、燃燈を。父上が太鼓判を押したのだ、おぬしはいずれ誰よりも強い仙人となるのだろう。せめて、それまでは、」
 黄巾力士の姿が見えた。燃燈は竜吉の体を支えて、すぐにでも乗り込んで帰れるように体制を整える。
「私の手で、おぬしを守らせておくれ」
 そっと我儘を口にした姉に、燃燈に否定の言葉は出せなかった。
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