純血の仙女―天化―

 ふんふんと嬉しそうに珍しく鼻唄を口ずさむ師に、天化は疑問符を抱えた。
「コーチ、嬉しそうさ。それ、なに?」
「これかい? 竜吉公主からの贈り物だよ。お裾分けと菓子をくれたようだ」
「竜吉公主、さま?」
 そういえば、きみはまだ会ったことがなかったね、と道徳は続けた。誰もが目を奪われる姿と清廉な気は、口を揃えて十二仙たちが美しいと褒め称えたのを覚えている。それほどまでに美しいのか、と天化が興味をそそられたのは、記憶に新しい。
 人間界にいる自身の母も美しいと評判であったので、母以上の美貌というのはどうにも想像できない。気立ての良い母のもと生まれ育ち、天化は身内の贔屓目ではなく母が一番と思っているのである。
「確かに天化の母君も美しいけどね。あの妲己に劣らぬ美仙女として、名を馳せているよ。容貌だけでなく力もね」
「強いんだ」
「妲己や聞仲とも引けを取らない大仙女だよ。まあ、体が弱いから百パーセントの力を出したところを見たことはないけどね」
 ふうん、と少年は話に耳を傾ける。今は半信半疑のようだが、見てしまえばきっと目を奪われる。そして言葉を交わせばもっと興味が出るだろうと道徳は確信していた。
 何しろ、人の美醜に興味のなさそうな太公望や普賢でさえ視線を外せなかったという話だ。昔から知る十二仙たちは、竜吉公主の存在を誇らしく思っていた。
「いつ会えるのかな?」
「さあ。でも、崑崙にいるんだから、会う機会はいっぱいあると思うよ。何なら、きみも鳳凰山に遊びに行けばいいんだ。私もよく訪問するからね」
「でも、会ったことがないのにいきなり行って迷惑になるさ」
「確かに、最近彼女も弟子を取って忙しそうだからね。まあ、そのうち会う機会があるよ」
 きみのことは、彼女も会いたいと言っていたから、と道徳は天化へ告げる。最近仙界入りした新たな友人の弟子に、彼女はいつでも興味を持ち会いたいと言っていた。あまり外出することのない竜吉公主は、崑崙山の古株でありながら交友関係はあまり広くない。繋がりを持ちたいと、彼女自身はいつでも友好的なのだが。
「初めて会ったら気を飲まれるかも知れないけど、彼女は気さくだから、見かけたら声をかけてあげればいいよ。たぶん、一目でわかると思うから」
 見たことのない人物に、自分から声をかけるなど、一歩間違えば失礼にもなり得る行為だ。それでも道徳は、自信満々に大丈夫と言い切る。その自信はどこから来るのか、天化にはわからなかった。


「ごめんよ、天化くん。待たせてしまって」
「大丈夫さ。コーチはゆっくりしてきていいって言ってたし」
「そう? 助かるよ」
 道徳から頼まれたトレーニング用品を取りに行ってくれと頼まれ、天化は今乾元山に住まう太乙真人のもとへと来ていた。約束の品は今日貰う予定だったのだが、太乙の調子も考慮してか、出来上がっていなくても特に問題はないと伝えてある。
 もうすぐ終わるから、と火花を散らしながら返す太乙をすごいな、とただ無邪気に天化は感想を抱いた。
「お待たせ。此処を押すと空気が噴射されるようになっていて、このレバーで調節できるようになっているんだ。一応説明書も添付しておくから、よく読んでって言っといてね」
「わあ。すごいさ」
 手渡された大きな器械に天化は目を輝かせた。まだ見た目にも精神的にも幼い少年は、見たことのない器具に興味津津のようだった。
「それから、くれぐれもレベルマックスでいきなり使用しないでね。一から順番に慣らすように使っておくれよ。風力が強すぎて、扱っている方が吹き飛んでしまうから、」
「え、」
 じろじろと触って眺めて、天化はふいにレバーを動かしてしまった。同時にスイッチも触ってしまい、洞府の中で噴射された空気に、天化は器械を持ったまま外へと吹き飛ばされた。
「え、ええー! 天化くん! お、おかしいな、レバーはちょっとやそっとの力じゃ動かせないようにしていたのに、」
 悲鳴を上げて青空の星となってしまった天化に、あの子の力は凄いんだなあ、と呑気に太乙は呟いた。吹き飛ばされた天化を迎えに行くために、ぼさぼさになってしまった髪を撫でつけて黄巾力士へと乗り込んだ。

 激しい破壊音とともに、土煙と咲いていた花々が舞う。どうやら洞府に突っ込んだわけではないようで、天化はどこかの住まいを壊さなかったことに安堵した。
 それでも、綺麗に植えられていたであろう花や木々をなぎ倒してしまい、不注意とはいえ天化は困ったように眉尻を下げた。
 見たことのない処だった。庭らしきそこは花が咲き乱れ、池がある。清涼な空気は少し天化の気を落ち着かせた。
 これほどに手の行きとどいた庭を破壊してしまったことに、天化は怒られるだろうなあと少し身を構える。しかし謝らなければ、と心を決め、玄関はどこかときょろきょろと辺りを見渡した。
「……なんじゃ、この有様は」
 玄関を見つけるより先に、激しい衝突音がした庭へと家主は赴いた。天化は緊張した顔をじっと向け、そして主の姿を目に捉えた時、目を見張った。
「……手にあるのは、太乙の作った代物じゃな。泥だらけではないか。おぬし、名は何という?」
 手に持っていた器具の作者を瞬時に当てて見せ、髪の長い女性は荒れ地のように変わってしまった庭へと降り立った。天化の髪や顔に付いてしまった土をその手で払いのけ、大丈夫か? と労わるように顔を覗きこまれた。
「あ、ごめんなさい。その、」
「構わぬ。大きな怪我がなくて何よりじゃ」
 それで、名は? と再度尋ねる女性に名乗っていなかったと天化は慌てた。緊張したように名を名乗った時、どもってしまったことが少し恥ずかしかった。
「黄天化……。道徳の処の子じゃな。常々噂は聞いておるよ。私は竜吉公主。さて、では洞府へ上がって参れ。風呂を用意しよう」
「でも、悪いさ、……です。あの、庭、壊しちゃったし」
「構わぬよ。どうせ暇つぶしに作っただけなのだから。また時間つぶしに作ることができるから、感謝したいくらいじゃ」
 ふわりと笑って竜吉公主は言った。あれだけ荒々しく敷地内を破壊されては、特に感慨がなくとも怒って当然なのに。静かだったであろうこの場所に、とんでもない轟音が響いたのだから。
「さあ、服を脱いで入っておいで。洗っておいてあげよう」
「い、いいです! 自分で、やれるので。お風呂借りるので、そこで一緒に洗っていいですか?」
「そうか? では着替えを用意しよう。置いておくから、それを着て部屋においで」
 恐縮したように言う天化に、竜吉公主は少しつまらなそうに返事した。再度お礼を言う天化を風呂場へと残し、ふうと息を吐いた。
「私は、そんなに偉そうに見えるのかのう……」
 初対面の相手には、例にもれず皆今日の天化のように畏まって恐縮する。それが竜吉公主には少し寂しいのだが、愚痴を漏らしても仕方がないと着替えを出すために移動した。
 相手からすれば、存在そのものが奇跡のような仙女に、緊張するなという方が難しいのだが、そんな気持ちは彼女には伝わらない。

 遠い昔、彼女の弟が崑崙山にいた頃、弟はよく鳳凰山へと来てくれていた。その時の物をと探し、やっとの思いで見つけた衣服は、今の天化より少し大きいものだった。
「小さいよりは、ましじゃろう。赤雲、碧雲。お茶を用意しておくれ。あと、何か菓子でもあれば」
 天化より少しばかり年上の少女二人に命じ、竜吉公主はまた風呂場へと足を向けた。タオルの上に衣服を置いて、一生懸命服を洗っているらしい少年へ扉越しに笑みを向けた。
「そうじゃ、道徳に連絡しておかねば」
 いつまでも帰って来ない弟子を心配しているかもしれない。竜吉公主は少年の師である道徳真君へと連絡するために受話器を手に持った。
「やあ、まさか鳳凰山へ落ちていたとはね。公主には迷惑をかけたね」
「構わぬ。聊か驚いたが、客人は拒まぬ」
 さして心配した風でもない道徳に、竜吉公主は現場にいた太乙の方が心配しているのかと小さく溜息を吐いた。パニックになった太乙からの電話が、道徳との温度差で酷く苛立つ様子が目に見えるようだった。
「太乙が探してくれていたから私も待っていたんだけど、きみのところなら心配はないね。ゆっくりするようにって天化にも伝えておいてくれないかい?」
「ああ、だが天化は畏まってあまり長居したくないようじゃ」
「ええ、そう? 緊張してるんだよ、きみを一目見たいと言っていたし」
 そうかのう、と不安げな竜吉公主の声に、道徳は苦笑いした。これもいつかは通る道と心中で天化にエールを送る。
 緊張さえ乗り越えてしまえば、後はもう身を任せればいい。大らかで優しい竜吉公主とは、きっと良き友好関係を築けるのだから。
「風呂から上がったようじゃ。では、太乙が来るまで世間話でもしておこう」
「そうしてくれ。天化も喜ぶよ」
 受話器を置き、タオルを頭に被って部屋の入口に佇む天化に、竜吉公主は穏やかに笑って手招きした。ありがとうございました、と素直に礼を口にする少年を座るように促し竜吉公主も椅子へと腰をかけた。
「道徳には連絡しておいたが、迎えに来るのは太乙だそうじゃ。来るまでしばらくかかるそうだが、それまで私と茶でも飲んではくれぬか?」
 そっと目の前のテーブルに差し出されたカップを見つめ、天化は困ったように俯いた。
「どうした?」
「あの、庭のこと……」
「ああ、気に病むな。あれはあれで、……まあ、いい味が出ているかもしれん」
「俺っちに、庭を直させてください。元はといえば、俺っちがレバーを触ったのが原因だし……。うまくできないかもしれないけど」
「しかし、おぬしには修業があろう?」
「修業もちゃんとやります! だから」
 少年の心遣いに竜吉公主は感心した。自分の非を認め、償いをしようとする。真っ直ぐな子だと思った。
「ふむ。では、道徳に相談しようか。良い案をくれるやも知れぬ」
 それまでは、私に付き合っておくれ、と言う竜吉公主に、天化は迷いつつも笑顔を返した。

「ああ、天化くん! 良かったよ落ちたのが公主の処で。玉鼎の処だったら、楊戩くんから説教を延々聞かされたに違いないからね」
「おぬしの不注意ならそれも仕方なかろう」
「天化くんの力を見くびっていたよ。凄いね、きみは」
 迎えに来た太乙真人の言葉に、悪いのは自分なのに、と天化は思うが、凄いと本心で驚く太乙に、いたたまれなくなって何も言えず黙り込んだ。
 椅子を勧められ、太乙は素直に腰掛ける。碧雲から出された茶を一口飲んで竜吉公主へ顔を向けた。
「庭が偉いことになっていたけど、もしよかったら私が直そうか。私の責任でもあるし」
「あ、それは」
「何やら天化が責任を感じているらしくてな。道徳に相談してから決めようと思うのじゃが」
 天化が口を挟もうとして、竜吉公主は代わりに言葉を紡いだ。そう、と気を悪くした風もなく太乙は相槌を打つ。
「いいんじゃない。天化くんが此処に来るなら、きみも楽しみなんでしょう」
「うむ」
 先ほどは気を使ってか構わないとばかり言っていた竜吉公主も、天化が遊びに来てくれるのならと心持ち嬉しそうだ。
「じゃ、そろそろ帰ろうか。あんまり遅いと道徳も寂しがるしね」
「わかったさ。あ、公主さん、これ、」
 今も借りて纏っている衣服の裾をつまみ、天化は竜吉公主へ伺う。乾いたらしい天化が着ていた服は風呂敷に包まれ、赤雲から手渡された。
「私にはもう必要のないものじゃ。良ければ天化が着てくれると嬉しいのじゃが」
 天化の今着ている少年より少し大きめの衣服に、ああ、と太乙は思い至る。今はもういない彼女の弟の、昔の服なのだろう。確かに現在此処に彼がいたとしても、もう着れるはずがない。
「えっと……。じゃあ、貰うさ。ありがとうございます」
「では、お見送りしようか」
 立ち上がろうとした時、さらりと竜吉公主の肩から髪が落ちる。長い艶のある黒髪は、人間界にいる天化の母親を思い出させた。
「じゃあ、送ってくるよ。道徳の返事も楽しみにしてて」
「良い返事を期待している」
 黄巾力士の上から、ずっと此方を見送ってくれる竜吉公主を眺め、天化はやっと大きく深呼吸した。
「おや、やっぱり緊張してたんだね」
「何か、生きた心地がしなかったさ。本当に同じ人間なの?」
「当り前だよ。ただ少し変わった人生を歩んでいるだけ。彼女は私たちと同じ仲間だし、本当は結構寂しがり屋なんだよ」
「意外さ」
「だろうね。でも実際彼女は一人で食事をするのが嫌いらしいよ。寂しく感じておいしくないんだって」
 だから、きみもできるだけ話し相手になってあげたらいいよ、とアドバイスを受け、天化は頷いた。何となく母を思い出させる竜吉公主に、あの綺麗としか言い様のない佇まいと姿に、また会いたいと思ったのも事実だった。
 師である道徳の言葉は、決して大げさではなかったのだ。惚れた弱みとか思ってごめん、と心中で天化は呟いた。
「……太乙さんも、公主さんのことが好きなんか?」
「……ぶっ。そんな、あの男が聞いてたら瞬殺されそうなことを……。いや、何でもないよ。そうだね、好きだけど」
「ふうん。コーチ、ライバルいっぱいさ」
 おや、と心配そうに呟いた天化を見て、何だか誤解(なのかはわからないが)をしてしまっているなと太乙は思う。確かにそういう意味で竜吉公主に迫る輩を気付かれぬよう蹴散らすことも、あったが。
 でも、違うんだよなあ。親愛とも恋愛とも、友愛とも括ることのできない心情。複雑なんだよ、と太乙は呟いた。
「好きというのはいろいろあって、何も公主とあれこれしたいとか、そういう好きだけじゃないんだよ。そりゃあそうなれば嬉しいけどね。公主自身にその気はないから」
「じゃあ、友達としてってこと?」
「そうだね、今はそれが近いかな」
 わかったような、わからないような、複雑そうに天化は顔を曇らせた。少し難しかったかな、と思うけれど。時期が来ればわかるよ、と付け足しておいた。
 崖の上からぶんぶんと腕を大きく振る青年の姿が見え、知らないところで心配されてるよ、道徳。と、太乙は困ったように笑った。
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