純血の仙女―道徳―

「強くなれるなら、仙人を目指す!」
 そう決めて崑崙山へと入山したのは随分前のこと。仙人名を頂いて、十二仙の一人に昇格して、俺はきっと天狗になっていた。
「燃燈にはきっと、弱点なんかないんだろうなあ」
 筆頭に立つ男の姿を思い浮かべ、岩場に寝転んで呟いた。傍には長髪の剣士、玉鼎が佇んでいる。まだ彼にも勝てたためしはない。それでも肩を並べられる存在になれたことが嬉しくて、誇りを持って俺は生きていた。
 最強はきっと燃燈道人で、彼と手合わせをできることが嬉しかった。修業を積んでいればいつかは勝てる、なんて、驕った考えを持っていたようにも思う。
「道徳は、知らないのか」
「何を?」
 おかしそうに小さく笑った玉鼎を見つめる。確かに、俺は自分のことしか考えていなくて、十二仙になってから随分経つにも関わらず、崑崙山に住まう者たちを全て知っているわけではなかった。
「燃燈には、一つだけ弱点がある。というよりは、頭の上がらない人物か」
「原始天尊さまだろう?」
 師であり教主でもある原始天尊さまには、誰も勝てないだろう。俺だって、さすがに原始天尊さまに試合を申し込む度胸はない。
「そうではない。なんだかんだで、彼は原始天尊さまには真っ向から挑む時はある」
 さすがといったところか。では、どんな人物なのだろう。玉鼎は知っているようだった。
「私も、少しその人に弱いと思う」
「玉鼎も?」
「ああ。どうにも、大切にしておかねばならない気がして」
「縁者か何かかい?」
「そうだな。燃燈の姉上だ」
「姉!?」
 やはり知らなかったか、と玉鼎は驚きもせず呟いた。なるほど、姉とあれば弱いのもなんとなくわかる。しかし。
「玉鼎も弱いとなると、相当強いのかい」
「……強いよ。恐らく、金鰲島にいる趙公明や妲己と同等の力を持つと原始天尊さまから聞いた。戦うところを見たことがあるが、余力を残しながらも、確かに強かった」
 崑崙最強の男の姉は、崑崙最強の仙女なのか。とんでもない姉弟だ。
 けれど、意外だ。そんな人が崑崙にいるのなら、会っていてもおかしくない気がするのに。
「彼女は両親が仙人でね。体が弱い。だから、外出もほとんどできないし、あまり戦うことはないんだ」
「そうなのか……。でも、不思議だなあ。そんな仙女がいるのなら、もっと噂になりそうなのに」
 瞬きして玉鼎はぽかんと俺を見つめた。何かおかしいことでも言ったか。答えを促すように俺は見つめ返す。
「……きみは、本当に強くなることにしか興味がないのだな」
「もしかして、噂はあるのかい?」
 それが本来の仙道なのだろうな、と玉鼎は呟いた。よく分からないまま俺は返事を待つ。
「純血の仙女というのを、聞いたことはあるか」
「……そういえば、言っているのを聞いたことが……」
 あるような、ないような。わからなかったので、聞かなかったなあ。興味がなかったのだろう。申し訳ないけれど。
「それが、燃燈の姉上だよ」
 純血種。非常に稀な確率で生まれる誕生したときからの仙人。そういえばそんな奇跡のような仙人が存在すると聞いたことがあった。それが燃燈の姉なのか。
「燃燈は、スカウトされて入山したと聞いたけど」
「母親が違うのだと聞いた。恐らく燃燈の母上は人間なのだろう」
 腹違いの姉弟か。何やら複雑そうだが、仙人にはあまり関係ないのかも知れない。血縁者を大事にしたいと思うのは不思議ではない。
「いずれ、会えるよ。そういえば彼女もきみに会ってみたいと言っていた」
「俺の話をしたのか? 手合わせできるかな」
 目を輝かせて玉鼎に問えば、それはどうだろう、と困ったように笑った。


 崑崙山の一角で炎が上がった。迷い込んだ霊獣が暴れて火を吐いたと聞きつけ、俺も現場に向かうことにした。戦闘専門の俺では役には立たないかも知れないが、霊獣がまだ暴れているのならそれを止めるためにと黄巾力士に乗り込んで急いだ。
「あれ……火が消えてる」
 煙は上がっていたが、炎は鎮火されて、近くの岩場に霊獣が大人しく佇んでいた。気が済んだのか、それとも誰かが止めたのか、きょろきょろと見回すと、一つの人影が見えた。
 水の宝貝を操り、燃える炎のそばに浮かぶ後ろ姿。長い黒髪に一瞬玉鼎かとも思ったが、明らかに女性だった。誰だろう、と思っている間に炎は小さくなっていく。
「……あまり此処を壊さないでおくれ。おぬしも気が立っていたのだろうが」
 優しげな声音だった。霊獣へかけられたであろう言葉は途中で切れ、女性は此方を振りむいた。
 少しだけ驚いたように女性は瞬きした。長い睫に縁どられた瞳は蒼く、見透かされそうなほど澄んでいる。ぱしゃりと岩場を覆っていた水が主のもとに戻るために姿を変え、女性の周りを守るようにふわりと浮く。
 純潔の仙女。会ったことのない人物だったけれど、確信した。傍にいるだけで彼女の周りに清浄な空気が漂うのがわかった。これほど美しいという形容詞が似合う女性を、俺は見たことがなかった。
「もしや、霊獣を止めに来てくれたのか」
「、え、あ、いや」
「違うのか」
「や、違わない、です」
 どもってしまって上手く言葉が出て来ない。薄く微笑んだ女性は、すまぬな、と霊獣の方へ寄っていく。
「この方角を真っ直ぐ行けば、恐らくおぬしの知っている場所に出る。もう暴れてはならぬぞ」
 ではな、と微笑んで霊獣を見送った。霊獣はそのまま女性の指された方角へ去っていった。
「ええと、一人で対処を?」
「鎮火さえできれば問題はないだろうと思って。おぬしも、一人で来られたのではないか?」
「や、まあ、そうなんだけど……」
「では、同じではないか。何だか責められている気分になった」
「そういうつもりでは……」
 くすくすと楽しそうな笑い声が女性から漏れる。随分気さくな人だ。冗談を言うようには見えなかったけれど、何だかとても話しやすい。
「燃燈の姉上……でしょう? 初めまして、十二仙の清虚道徳真君です」
「おぬしが、清虚道徳真君殿か。いかにも、私は竜吉公主と申す」
 竜吉公主、と心中で反芻した。そういえば名を知らなかった。
 思い返すと、誰も彼女の名を口にしなかったような気がする。純血の仙女、燃燈の姉上と言えば、誰もが知っている名なのだろうと気付き、俺は自分の無知を少し反省した。
「燃燈が話してくれた。とても熱心で強いと。いい友人だと」
「え、燃燈が? 嬉しいな、認めてくれているとは」
「あやつは此処にいる皆を認めているよ。修業に励む姿を見て感化されておる。負けていられないと、いつも言っているのだから」
 そうなのか……、と俺は思わず呟いた。寡黙な燃燈がこの仙女には胸の内を吐露するのか、とも思う。周りからは計り知れない絆で結ばれているであろう二人の姉弟。少しだけ羨ましいとも思った。
「貴女もお強いのだと伺いました。いつか手合わせできたらと」
 驚いて目を丸くする彼女に、俺はしまったと口元を手で隠す。玉鼎が言っていた。彼女は体が弱いんだった。
 俺の様子を眺めて可笑しそうに笑う。手合わせを願われたのは初めてだ、と呟いた。
「何せ皆私の体質を知っているものだから。成程、こんなにも嬉しいものなのだな」
「嬉しい、ですか。失言だとばかり」
「嬉しいよ。私の力を認めてもらえたようだった。ああ、機会があればこちらこそぜひ手合わせ願いたいものじゃ。燃燈が認めるのだから、さぞお強いのであろう」
「えっでもまだ玉鼎にも勝ってないから……そうだ、玉鼎に勝てたらお願いします!」
「承知した。楽しみにしていよう」
 言葉通り随分嬉しそうに笑みを見せた彼女は、俺の背後へ目を向けた。黄巾力士が此方へ向かってきていた。
「姉さま!」
「おお、燃燈ではないか。火ならもう鎮火したぞ」
「まさかお一人で霊獣の相手を? 呼んでくだされば私がしましたのに」
「炎の霊獣だ。私が行けば早いであろう。おぬしでは燃え広がらせるのではないか?」
「むっ……いやしかし、道徳がいようが危険なものは危険です」
「燃えていた火も消え霊獣も去った。問題なかろう」
「ぐっ……お怪我は」
「この通りピンピンしておる」
 寡黙で修行に励む姿しか知らなかったあの燃燈がやり込められている。ひょっとしてとても珍しい光景なのではないだろうか。
 玉鼎の言っていたとおり、燃燈は彼女に全く敵わないようだ。優しげだった彼女の目は子供のように生き生きとしている。燃燈を誂うのが楽しいようだった。なんと仲の良い姉弟なのだろう。
「仕方ない。では私は戻るとしよう。道徳殿、約束待ちわびておるぞ」
「あ、はい! 玉鼎を倒して見せますとも!」
「姉さま、約束とは?」
「内緒じゃ」
 彼女のにべもない言葉に詰まりながらも、燃燈は黄巾力士へ彼女を誘導する。去っていく二人を眺めながら、俺はいつも以上にやる気に満ち溢れていた。
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